4・秀吉に仕えていた頃の高虎
秀長死後秀長家は養子となっていた秀保が継ぎます。秀保は当時12歳であり、筆頭家老高虎が秀長家を取り仕切っていたと思われます。天正20年(1592年)秀吉は朝鮮出兵を命じますが、秀保は名護屋在陣で、高虎が熊野水軍を率いて参加します。水軍の任務は兵員および兵糧の釜山までの運搬と、釜山周辺海域の制海権の確保だったようです。最初釜山に入ったときは、大量の船の威力で朝鮮水軍を蹴散らしますが、李瞬水率いる朝鮮水軍が偵察船を出し、日本船が少ないところを見計らって攻撃を仕掛け始めると、次々と敗退します。高虎も元禄元年(1592年)5月7日、巨済島の玉浦海戦で敗れています。敗因は朝鮮水軍は大砲を装備する軍事船が主力で、離れて大砲や鉄砲を撃ちかける戦い方なのに対し、日本側は輸送船が主力で、相手の船に接近して乗り移り制圧する戦い方だったためと言われています。その後日本軍は陸地に砲台を築き、接近する朝鮮水軍を陸から砲撃する作戦に変更します。この結果、朝鮮水軍は停泊する日本船を攻撃しようと近づくと陸地から砲撃され、優位性を生かせなくなります。文禄の役は、明の国境に至った日本軍が明・朝鮮軍に反撃され、文禄2年(1593年)7月、日本軍は朝鮮南部に撤退することで停戦が成立します。この後日本軍は、朝鮮南部に多くの倭城を築きますが、高虎も順天倭城の築城に加わっています。順天倭城は三方が海に面した要害にありました。後に明・朝鮮軍が5万以上の兵で攻めても落とせなかった難攻不落の城です。近くには船溜まりもあり水軍の拠点にもなっていました。高虎が後日築く今治城など海に面した城は順天倭城での経験が基になっていると考えられます。
こんな中文禄4年(1595年)秀長家当主の秀保が急死します。病気療養中に死んだこととになっていますが、秀吉による謀殺の疑いがあるのは前述のとおりです。秀保の死を知った高虎は帰国後、秀長家の存続を図るため、当初秀長後継として養子に入り、秀保が後継になったため高虎の養子となっていた仙丸(丹羽長秀3男。当時は藤堂高吉)を元に戻し、秀長家の後継者とするよう秀吉に献策しましたが、聞き入れられませんでした。これで秀長家は廃止となり、失望した高虎は高野山に上り仏門に入ります。これを聞いた家康は、本多忠勝や本多正信らを高野山に派遣し招聘します。一方高虎の優秀さを知る秀吉も、家康に取られたら一大事とばかり、高虎が親しくしていた讃岐高松藩主生駒親正を派遣し、秀吉の家臣となるよう説得します。高虎はこれを聞き入れ、粉河に帰ります。その後秀吉から伊予板島7万石の藩主を命じられます。板島の前藩主は戸田勝隆でしたが、朝鮮の役からの帰途病死していました。勝隆は強引に検地を進め、板島では農民の一揆が多発していました。高虎はこういう状態を紀州で経験しており、上手く解決したようです。そこで板島城の改修にかかりますが、慶長の役が始まります。
文禄2年(1593)7月の停戦決定後明との間で和議交渉が続けられ、まとまったとして文禄5年(1596年)9月、明の使節が大坂城を訪れ、秀吉に和議の条件を伝えます。それを聞いた秀吉は約束が違うと激怒し、和議は破談、停戦が破れます。そして慶長2年(1597年)出兵します。ここでも高虎は水軍を指揮します。ここでは熊野水軍ではなく村上水軍を配下に置いたようです。慶長2年(1597年)7月、朝鮮水軍が巨済島と漆川島の間にある湾に停泊していたところを、海上から高虎率いる水軍が攻撃、これを陸上部隊が援護し、朝鮮水軍に壊滅的被害を与えます(漆川梁海戦)。その後高虎率いる水軍は、同年8月陸の左軍と共に全羅道に向かい、南原城を攻撃し陥落させます。さらに全羅道西南部まで達し、陸上部隊を支援します。このとき鳴梁渡という海峡に李瞬水軍がいることを知った高虎は、関船数十隻を率いて捕獲に向かいます。これに対して大型船が多い李瞬水軍が反撃を加え、激戦となります。この戦いで高虎率いる水軍は、高虎が負傷したほか村上水軍の来島通総(みちふさ)が死亡するなど相当の被害を出します。しかし李瞬水軍は日本水軍の本体が近くにいることを知っており、退却します。その結果、日本水軍が鳴梁海峡の制海権を確保します(鳴梁海戦)。この後暫く海上の戦いは行われませんでした。慶長3年(1598年)6月、高虎は帰国し伏見を訪れ、秀吉に戦況を報告しています。秀吉は高虎の働きを称え、伊予喜多郡の大津城1万石を加増します。この後高虎は再び朝鮮に戻りますが、慶長3年(1598年)8月秀吉が死去し、日本軍は撤退を命じられます。その際順天倭城から小西軍らが撤退する際、海上で包囲する朝鮮の水軍と支援に駆け付けた日本の水軍(島津義弘ら)との間で露梁海戦(李瞬水戦死)が行われますが、これには高虎は参加していません。この頃高虎は釜山で日本軍の帰国の船を準備していたと思われます。朝鮮撤収は豊臣政権大老として家康が命じており、高虎は家康から撤収の総指揮官に命じられていたという記述もあります。そうだとすれば、家康の高虎に対する評価の高さが伺えます。朝鮮の役での高虎は、日本国内での陸戦の猛者から海戦の猛者に変わっており、何をやらせても一流です。