3・見えてくる秀長像

(1)豊臣政権の鎹(かすがい)だった

秀長の死から1カ月後の2月、秀吉はあれだけ重用していた利休に切腹を命じます。理由は良く分かっていませんが、秀長の生存中は「公儀のことは秀長に、内々のことは利休に」(秀長が大友宗麟に言った言葉)と言われ、内々のことを殆ど処理していた利休ですから、秀長がいなくなり公儀のことが秀吉に集中すれば、利休は秀吉と並ぶ権力者のように見えます。利休が処理した事案を三成らからいちいち報告され、秀吉は利休の権力者ぶりが我慢ならなくなったものと思われます。翌年の天正20年(1592年)4月には朝鮮出兵を命じ、破滅への道を走り始めます。そして朝鮮での戦いが行き詰まっていた文禄4年(1595年)7月には、関白の地位を譲っていた秀次に切腹を命じています。理由は謀反を企んでいたからと言われていますが、ちょっと信じられません。秀次の謀反に加勢する大名が見当たりません。朝鮮での戦いが行き詰まり、悪い情報ばかり耳に入るため、秀吉は猜疑心の塊になっていたのかも知れません。秀次切腹の3カ月前の4月には、秀長家を継いでいた秀次の弟秀保が不審な死を遂げています。記録上は療養先の十津川で病死したことになっていますが、秀次切腹の3カ月前であり、秀保が秀次に味方することを危惧して秀吉が殺害したとも考えられます。秀吉は秀保の葬儀を密葬で済ませており、悲しんだ様子がありません。前後しますが天正20年(1592年)9月には、秀次の弟(秀保の兄)秀勝も朝鮮の巨済島で病死したことになっており、秀吉一族の血を引く男子(秀次・秀勝・秀保は秀吉の姉ともの子)は絶滅しています。これは文禄2年(1593年)8月の秀頼誕生の前後に起きており、秀頼の立場を脅かしそうな3人を秀吉が抹殺した疑いがあります(秀勝については、淀殿の妹お江を妻としており、淀殿の求めに応じて、子種がなかった秀吉に代わり淀殿に子種を提供した、即ち秀頼の実父であった可能性があります。これについてはブログ中の「豊臣秀頼の本当の父親は豊臣秀勝!?」をご覧ください)。秀吉一族の間では秀長が間に入り、良好な関係が維持されていたと思われます。例えば、秀次は長久手の戦いで大将ながら味方を見捨てて逃げ帰ると言う失態を犯し、秀吉に「手打ちにする」とまで叱責されますが、以後の紀州攻めや四国攻めでは秀長の下で挽回を図っています。秀次が切腹になった件でも秀長が居ればそもそも謀反の疑いなど生まれなかったと思われます

豊臣恩顧の大名の間でも、朝鮮の役において清正らの武将と三成ら軍監との対立が激しくなっています。朝鮮の役では、秀吉軍は最初の数カ月間は快進撃を続けますが、明との国境付近に至ると明が来襲し、秀吉軍は敗走を始めます。その後朝鮮の義勇軍も加わり停戦に追い込まれ、朝鮮南部まで撤退します。この後も苦戦続きですから、三成ら軍艦として派遣された奉行やその配下の目付たちは、その原因を現地の武将のミスとして秀吉に報告します。その結果多くの武将が秀吉から叱責を受け、中には改易になったり、減封・転封になる武将(大名)もいました。このような報告を上げた目付の頭目が三成であり、現場の武将たちの多くが三成に恨みを持ちます。これが関ヶ原の戦いの遠因となっており、朝鮮で三成に恨みを持つ武将は東軍に属しています。もし秀長が生きていれば、秀長は朝鮮に在陣し、秀長から戦いの状況を秀吉に伝え、武将が一方的に処分・叱責されることはなかったと思われます。それまで大名からの報告や相談は、秀吉子飼いの大名も含め先ず秀長にあり、大部分は秀長が処理し、重要なことだけ秀吉に挙げられていたと考えられます。それが悪い内容であった場合、秀長は秀吉の怒りを買うことがないように工夫して伝え、その結果大名と秀吉の関係は上手く行っていたと考えられます。それが秀長亡き後は、その役割を三成らが担うようになり、後で自分の責任にならないよう悪い情報ほど上げるようになったと考えられます。それが朝鮮の役で表れており、朝鮮在陣の武将の殆どが秀吉から叱責されています。

これらのことから秀長は、秀吉と利休、豊臣一族および大名との間で鎹の役割を果たしていたことが分かります。秀長の死によって、秀吉と彼らの間の鎹が外れ、バラバラになっています。もし秀長が生きていたら、例え秀吉が死去したとしても(多分もっと長生きしたでしょうが)、秀長が秀頼を後見し、豊臣政権は安定的に継続した可能性が高いと思われます。

(2)秀吉の機敏さ、2人の軍師の知略を学んだ戦上手

秀長は秀吉の補佐役だったと言う評価は良く見られますが、優秀な武将だったという評価は余り見られません。しかし調べて行くと武将としても優秀だったことが分かります。秀長が指揮した戦いは負け知らずです。最初の頃の戦いには、秀吉から優れた武将を付けられていたようですが、それでもよそ者軍団をまとめて勝ち続けるのは至難の業です。人の扱いが上手かったのは間違いありません。それに早くから秀吉のそばで軍議に参加し、秀吉の機敏さと2人の軍師(竹中半兵衛と黒田官兵衛)の知略を併せ持つようになったと思われます。戦いながら和睦の撒き餌を多用するところに2人の軍師の影響が見えます。秀長は武将としても名将です。

(3)豊臣政権の金庫番だった

もう一つ秀長の特徴として挙げられるのは、豊臣政権の金庫番だったということです。秀長が死去したとき、大和郡山城には金子56,000枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になるほど蓄えられていたと言われています。これは、秀長が大名から秀吉への報告・相談を一手に取次いでおり、そのお礼や商人からの献上だったと考えられます。秀長は九州攻めの際、九州に出兵した各地の大名に、秀吉が大坂から運ばせた豊富な兵糧を高値で売ろうとし、秀吉から制止されたという話もあります。秀吉は、鳥取城攻めの際に米麦を高値で買い占めるための資金や高松城水攻めの際堤防用の土嚢を農民に持参させるための資金の調達を秀長に命じ、その度に秀長は資金集めに悩まされたものと思われます。そのため万が一のために備えて蓄財に励んでいたと考えられます。播磨攻めの最中の但馬南部への侵攻は、戦費に使える生野銀山の獲得が目的で、秀長の献策だったとも言われています。天正16年(1588)紀州の雑賀で材木代官を務めていた吉川平介が秀長から売買を命じられた熊野の木材2万本の代金を着服する事件があり、これを聞いた秀吉は激怒し、吉川を処刑、秀長から翌年年初の挨拶を受けなかったと言います。秀長家の収入は秀吉の懐と直結していたことが伺えます。