岸田首相の甘さは長銀時代に身についた

岸田首相が支持率低下の洪水に押し流されそうです。時事通信社が11月10~13日に行った世論調査で岸田内閣の支持率は21.3%(前月比5.0ポイント減)、自民党の支持率は19.1%(同1.9ポイント減)で、いずれも岸田政権発足以来の最低を更新したということです。特に、自民党の支持率が20%を切ったのは、2012年12月の政権復帰後初めてだと言います。時事通信の調査は個別面談方式(電話調査ではない)のため、一番信用性が高いと言われています。

なぜこうも下がるかというと岸田首相の人間性が信用されていないからだと思われます。その始まりは息子の翔太郎氏を首相秘書官に任命したことでした。これで翔太郎氏がバリバリ活躍すればよかったのですが、出てくるのは不祥事ばかりでした。そして極め付けは首相官邸での忘年会と一族の集合写真が流出したことでした。あれで岸田首相は多くの国民から公人トップの器ではないと判定されました。これで岸田首相が反省すればよかったのですが、今年9月の内閣改造では自分がかって首相候補に担いだ加藤紘一元衆議院議員の愛娘加藤鮎子議員をこども担当大臣に任命するという縁故人事を行いました。そのときの任命理由が翔太郎秘書官任命と同じ「適材適所」でした。こども政策は岸田首相が岸田内閣の重要政策と言っており、3.5兆円の予算増が予定されていることから、もっと実績のある議員(たとえば上川陽子議員)を充てるべきでした。実際国会質疑で加藤大臣は十分に答弁できず経験不足を露呈しました。さらに「適材適所」で任命した政務三役から3人の辞任者が出て、国民は、岸田首相の人を見る目は節穴であり、言葉遊びが過ぎると見なしました。この経緯を考えれば、今の支持率は当然と言えます(ネットでは「まだこんなにあるのか」という声もある。

私は岸田首相が早大卒業後日本長期信用銀行(長銀)に約5年いたことから、岸田首相の行く末に不安を感じていましたが、現実のものとなっています。人は最初に入社した会社の文化に大きな影響を受けます。特に岸田首相のように会社経験は長銀だけという場合、長銀の文化を通して社会を判断します。私は長銀と相当近いところで仕事をしていましたので、長銀の文化はかなりよく知っています。はっきり言って長銀の文化で育った人は日本のトップには立てません。それは余りにも恵まれており、自他に対してともに甘い文化だからです。長銀は日本興業銀行(興銀)との関係抜きでは語れません。興銀と言えば岸田首相が長銀に入行した時代には民間銀行のトップに君臨していました。興銀は1900年産業金融専門銀行として設立され、日本の産業近代化を資金面や人材面で支え、他の民間銀行とは別格視されていました。長銀は1952年産業金融専門銀行の2番手として設立されたことから入行者は興銀に行けなくて来た人が多く、2番手意識が強い銀行でした。ただし2番手と言っても日本全体の2番手という意識であり、待遇は興銀並みで都市銀行より良いことから、長銀マンのプライドは大変高いものでした。しかし重厚長大産業は興銀がメインであり、長銀のメイン取引先は新しく生まれていた流通業や不動産業となって行きました。そのため重厚長大産業の優秀な人材と切磋琢磨する機会は少なく、一流の人材が育つ文化(風土)ではありませんでした。私が持った長銀マンの印象は、「頭の良い大学生や大学院生がそのまま年をとったような人たち」です。岸田首相の場合、2浪の早大卒ですから普通なら長銀には入行できません(長銀の毎年の大卒入行者は東大卒が大部分)。岸田首相は応募時点で将来父親の地盤を引き継いで衆議院議員になることが予定されていたことから、政界対策として採用されたと思われます。いわゆる「預かり社員」(重要な取引先の後継者を勉強のため数年の予定で預かる)です。そのこともあって岸田首相は長銀では大切に扱われたはずです(お客さん扱い)。今の岸田首相はそのときの感覚を引きずっているように思われます。「三つ子の魂百まで」ではありませんが、長銀で身に着けた社会人意識が今の岸田首相の甘さを形作っているように感じられます。岸田首相の今後が長銀の末路と重なります。