こうして歴史は書き換えられた

2016年4月の熊本地震で熊本城の飯田丸五階櫓が隅石の1本柱で支えられているのに触発されて、熊本城を築城した加藤清正について調べて見ました。清正について知っていたことは、豊臣恩顧の代表的大名であったこと、虎退治で知られる猛将だったこと、熊本城は薩摩の侵攻に備えて築城されたこと、などでした。

ビジネス判断で培われて調査手法を駆使して調べて見ると、これらのことが間違いであることが分かりました。

先ず、豊臣恩顧の代表的大名であったことについては、清正は秀吉死去により朝鮮出兵から帰国した翌年(1599年)には、家康の養女(実母の弟の娘)を継室としています。その後1606年には、長女あま姫を徳川四天王の一人館林藩主榊原康政の嫡男に嫁がせています。さらに1609年には次女八十姫(継室との間の子)と家康十男徳川頼宜(のちの紀州藩主)の婚約が成立しています。これをみれば、清正は秀吉死去後、家康に接近したことが分かります。清正生存時代、加藤家は徳川将軍家の有力な姻戚大名になっていたのです。従って、清正がずっと豊臣家に忠義を尽くしたという意味での豊臣恩顧の代表的大名であったというのは間違いです。また、加藤家がお家断絶になった理由を、豊臣恩顧の大名家だったから、とするのも間違いです。そして、熊本城本丸御殿の「昭君之間」を、秀頼が大坂城を追われたときにここに迎えて、徳川幕府と戦うために造ったもの、という俗説も間違いです。これは、八十姫と頼宜の婚約成立の翌年(1610年)に完成したと言われており、この年には徳川家から結納使が熊本城を訪れていることから、結納に間に合うように完成させたと思われます。そして、「昭君」は「将軍」の意味であり、頼宜は家康の寵愛を受け、第三代将軍の可能性もあったことから、清正は頼宜の将軍就任の願いを込めて「昭君之間」を造ったと思われます。

次に、朝鮮での虎退治についても、当時朝鮮に出兵した大名の多くが行っていたことであり、道具も言われている片鎌鑓ではなく鉄砲だったことが分かっています。そして、清正は、戦においては華々しい戦果は挙げておらず、猛将とは程遠かったと思われます。清正の朝鮮での戦いで有名な蔚山城の戦いは、籠城戦であり、味方の救援で事なきを得ています。

最後の熊本城は薩摩の侵攻に備えて築城されたものという説も間違いです。清正が熊本城の築城を命じたのは、朝鮮で秀吉死去(1598年9月)を知ってからと言われています。当時明・朝鮮軍は、秀吉が死んだらしいという情報を入手に、反転攻勢に出ていました。東路・中路・西路および西側海上から、日本軍が倭城を構える朝鮮南部に総攻撃を開始しました。そんななか大老家康が撤収命令を出し、清正らは命辛辛に日本に帰国します。1598年12月の事です。

1600年10月に起きた関ケ原の戦いでは、清正は東軍への参加を表明し、西軍に参加した小西行長の宇土城を落とします。このとき、同じく東軍に参加した黒田如水を熊本城に迎えたとなっていますので、この頃には熊本城は相当できていたことになります。これから分かることは、清正が熊本城を築城したのは、薩摩の侵攻に備えるためではないということです。秀吉の死去に乗じ、明・朝鮮軍が日本に侵攻する可能性があったからです。薩摩は秀吉軍に敗れて間がありませんし、清正と島津義弘は朝鮮で共に戦っており、交流もありました。従って、薩摩の侵攻に備えて熊本城を築城する必要性は全くありませんでした。熊本城が薩摩への備えと言われるようになったのは、江戸後期薩摩が力を持つようになってからであり、決定的にしたのは、西南の役で西郷軍が熊本城を攻めて落とせなかったからです。

では何故、清正の歴史はこうも書き換えられたのでしょうか?それは、清正の娘八十姫が嫁いだ家康十男徳川頼宜の孫徳川吉宗が第八代将軍に就任し、外曾祖父に当たる清正について調べ始めたことに始まります。吉宗の父は頼宜の側室の子であり、八十姫との血の繋がりはありませんが、側室の子は正室の子の扱いとなりますので、吉宗は八十姫の孫となります。それでも、吉宗はなぜ、外曾祖父とは言え死去後100年以上経っていた清正に突然関心をもったのでしょうか?それは、吉宗が将軍に就任した当時の幕府老中に、これまた清正の娘あま姫の血筋に連なる阿部正喬(まさたか)がいたからと考えられます。正喬から清正の血筋であると打ち明けられ、清正との縁を再認識したのでしょう。これにより、清正は将軍家姻戚として蘇ります。そして、吉宗の孫に当たる老中松平定信によって、当時幕府体制再興のため強化されていた儒教教育において最も強調された忠義の武士の代表に祭り上げられたと考えられます。ここから、清正の歴史は忠義の武士の代表に相応しい物語に書き換えられて行ったと思われます。

これが分かると、元ライブドア社長堀江貴文氏の著書「すべての教育は洗脳である」も一部当たっているように思います。少なくとも、歴史教育は、洗脳的要素が強いかも知れません。最近、歴史教育で教える事項を減らそうという提言がなされていますが、妥当かも知れません。

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