これが本当の加藤清正。歴史鑑定をお願いします!

加藤清正と言えば熊本では神様にまでなっていますし、戦国時代劇では人気の武将です。しかし、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康のような戦国時代の主役を張った人物からすると、少し目立つ脇役に過ぎず、清正が50歳と比較的若くして亡くなっていることなどから、本当の清正像は不明のまま来ています。

清正の後を継いで1632年から1871年まで239年間も熊本藩主を務めた細川家は、室町幕府時代から続く名門で、当主は武勇に優れていたばかりでなく、茶道や和歌など文化面にも通じ、朝廷や公家の間でも一目置かれる存在でした。そして細川家は、騒乱が続いた京で生き残る術として、情報収集に力を入れていたため、細川家には歴代の藩主が収集した情報や文化財などが豊富にあり、いまでも財団法人永青文庫で保管されています。

一方、加藤家は1588年から1632年の44年間に過ぎず、うち清正は、肥後半国の藩主になって間もなくの7年間は朝鮮出兵し、慶長3年(1598年)12月に帰国後は国造りに忙しく、慶長16年(1611年)6月に50歳で亡くなったため、国内で重要な地位を占めた期間は約12年間に過ぎず、清正に関する資料は殆ど残されていないのです。そのため、清正を研究テーマとする研究者は少数であり、現在流布されている清正に関する話は、ほとんどが清正死後にねつ造されたものです。それが今でも真しやかに語られ、聞く方も受け入れてきました。それは、話す方、聞く方にとって、実害のない話だったからです。

私は、清正については全く興味がありませんでしたが、2016年4月の熊本地震の際、熊本城の飯田丸五階櫓が隅石の一本柱で支えられているのを見て、こんな魂の入った石垣を造った加藤清正とは何者と思い、調べ始めました。先ずは頻繁に報道されていた熊本城の「昭君之間」の作られた目的から調べ始めました。というのは、観光案内などでは「「清正は豊臣恩顧の大名であり、昭君之間は、豊臣秀頼が徳川方に大阪城を追われた際にここに匿い、西日本の豊臣恩顧の大名を糾合し徳川幕府と戦うため」に造られたと言われていたからです。当時強大な徳川幕府と戦っても勝ち目はないことは自明のことであり、これでは清正はドン・キホーテ的人物だったことになります。そんな人物が巨大な地震にも耐える石垣を造ったとは思えなかったからです。

清正に関して書かれた研究書や論文、小説など60冊以上を読み、調べました。その中で説得力のあるものは、福田正秀・水野勝之氏共著の「加藤清正妻子の研究」および「続・加藤清正妻子の研究」並びに北島万次氏著の「加藤清正 朝鮮の侵略の実像」の3冊だけでした。それ以外は、「徳川実記」など徳川家康、豊臣秀吉などに関する著述から清正に関する記述を集めて、そのほかの歴史的事実と照合して組み立てました。

この結果、現在語られている清正に関する話の多くが間違いであることが分かりました。主な項目は次の通りです。

1.清正を豊臣恩顧の大名と見るのは間違い。秀吉死後は、徳川家の有力な姻戚大名であった。

2.熊本城は薩摩への備えとして築かれたものではない。明・朝鮮軍の日本侵攻に備えて築かれたもの。

3.熊本城の「昭君之間」は、秀頼を匿うために造られたものではない。二女八十姫の夫となる家康10男徳川頼宜(のちの初代紀州藩主)の将軍就任を夢見て造られたもの。

4.加藤家改易は、豊臣恩顧の大名潰しのためではない。加藤家は徳川家の有力姻戚大名で、改易された第2代藩主忠広の正室は、第2代将軍秀忠の姪。従ってその子光正は徳川血筋。改易の原因の1つは、当時は発生した2つの地震からの復興のため、領民に重い賦役を課したため、領民の不満が高まっていたこと。

5.清正が死後100年以上経って蘇ったのは、二女八十姫の孫に当たる第3代紀州藩主徳川吉宗が幕府第8代将軍に就任し、その際幕府老中に清正長女あま姫の血筋に連なる阿部正喬(まさたか)がいたため、吉宗が外曾祖父に当たる清正に興味を持ち、調べ始めたから。ここから清正は将軍家姻戚として復活した。忠義の武士の代表に祭り上げたのは、吉宗孫で老中となった松平定信。

間違った話を放置しても実害はないとは言え、やはり本当の加藤清正を知った方がよいと思います。本当の加藤清正を知れば、親近感が湧くこと請け合いです。是非BS-TBSの「にっぽん!歴史鑑定」で取り上げて下さい。

 

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