明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(12)

12.家光は福が生んだ子、否定する方が難しい

今でも家光は江が生んだことになっています。しかし、福が生んだという史料と状況証拠が多数あり、福が生んだ子と考えるのが妥当です。江が生んだと言う証拠は何もないし、幕府がそうしていることを根拠としています。証拠的には、江が生んだとする方が厳しいと思います。

それでは、家光は福が生んだ子であるという主張の論拠を見て行きたいと思います。以下論拠の多くは福田千鶴氏の「春日局」(ミネルヴァ日本評伝選)に依っています。

・江戸城紅葉山文庫に保管された「東照宮御文の写し」に「秀忠公御嫡男竹千代君御腹春日局 三世将軍家光公也 同御二男国松君御腹御台所 駿河大納言忠長公也」との文言があること。

・臼杵稲葉家(福の母の実家稲葉本家を相続した貞通家系)の「御家系典」に福について「慶長8年(1603年)に江戸城に出仕し、江付きの侍女になったが、容色美麗であったので、将軍の胤を宿し、慶長9年(1604年)7月17日に竹千代君が誕生した。しかし、利三の由緒を嫌い、江の出産として披露した。」という記述があること。

・秀忠には8人の子供が生まれたが、全て江が生んだとすれば11年間に8人産んだことになり現実的でなく、このうちの多くは侍妾が生んだと考えられること。

・家光の誕生月日は、家光が将軍になるまで明らかにされず、具足始めや元服の日時もはっきりしないなど将軍跡継ぎの嫡男として育てられたとは思えないこと。

・江の葬儀は、家光ではなく、忠長が執り行ったこと。

これらの論拠があっても、なお歴史研究者の中で家光は春日局の子と認められるには至っていません。それは、論拠が一次史料に基づいていないからです。歴史研究者は一次史料研究者と言うのが実体であり、一次史料に基づかない見解は、研究者にあるまじき見解と見なされるようです。一方、家光は江が生んだと言う論拠は何もありません。将軍になったのだから江の子という理由だと思われます。

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