明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(13)

13.家康が家光を後継将軍に指名した理由

ここで家康が家光を秀忠の後継将軍に指名した理由が問題となります。家光を江が生んだ子と見なす人たちは、家光が将軍秀忠と正室江の嫡子で長子だから、当然の指名だと言うことになります。

しかし、家康が家光を秀忠の後継将軍に指名したのは、大坂の役終了後の元和元年(1615年)または元和2年と考えられており、なぜこの時期になったのかが問題となります。家康はこのとき74歳(数え)または75歳(同)であり、いつ死んでもおかしくない年齢でした。しかもその前には、命を落としかねない大坂の役に出陣しています。もし自分で秀忠後継将軍を指名するつもりであったなら、もっと以前に指名していたと思われます。指名していなかったということは、秀忠の後継将軍は秀忠が指名すればよいと考えていたものと思われます。慶長11年(1606年)の忠長誕生後、秀忠と江は忠長を溺愛し、家光には愛情を示さなかったと言われています。そこで江戸城内では次の将軍は忠長と噂する家臣が多かったと言います。この噂は家康の耳にも届いていたはずで、もし家康が長子相続を考えていたとすれば、この時点で家光後継、長子相続を宣言していたと思われます。当時の武家の相続としては、嫡子相続が慣習となっていました。従って、家康も秀忠が長子ながら庶子である家光ではなく、次子ながら嫡子である忠長を後継将軍に考えていることを承知し、承認していたものと考えられます。

これが大坂の役に出陣中の出来事で考えが変わったものと思われます。それは次のようなことが考えられます。

1つは、家康が6男忠輝を勘当したことです。忠輝は、越後高田で75万石を与えられていました。忠輝は、生まれつき容貌が醜かったため(或いは生母茶阿の局の身分が低かったため)、家康に嫌われ、本多正信を通じ下野栃木城主皆川広照に預けられて育てられます。その後弟の7男松千代が早世したため、松千代に代って松平庶流の長沢松平家を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられます。その後加増移封されていくのですが、慶長8年(1603年)信濃国川中島藩12万石に加増移封され、当時飛ぶ鳥の勢いで出世していた大久保長安を家老に付けられてから、表舞台に登場することとなります。そして慶長11年(1606年)、長安の仲介により伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫を娶ります。ここから忠輝は長安や政宗の野望に利用されることとなります。(その後越後高田を加増され、高田城を築き、移る。)

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に際しては、留守居役を命じられ、これに不満な忠輝は、高田城を出発しようとしませんでした。これは政宗がなだめ、遅れ馳せながら出発します。翌慶長20年(1615年)の大坂夏に陣においては、高田城から大阪に進軍中の近江守山で、忠輝を追い越した将軍秀忠直属の旗本長坂血鑓九郎信時(家康の甲斐攻めの際、穴山梅雪を寝返らせた長坂血鑓九郎信政の子孫)を斬殺します。またこのときは、大坂城大和口の大将を命じられていましたが、遅参し軍功を挙げられず、家康に怒られることとなります。大坂の役終了後には、京で家康が朝廷に戦勝報告に行くため忠輝も同行するよう命じていたところ、忠輝は病気を理由に同行しなかったのですが、後日このとき嵐山で川遊びをしていたことが分かり、再度家康の怒りを買います。この結果、同年8月、家康は忠輝に対して今後対面しないことを伝えます。事実上の勘当処分です。この結果、忠輝は家康の死に目にも会えませんでした。そして元和2年(1616年)の家康死後、秀忠により改易と伊勢国朝熊への流罪を命じられます。忠輝の一連の処分には、このほか、伊達政宗が忠輝を担ぎ天下取りを狙っているとの噂があったことや、将軍側近の中に大久保長安が忠輝の家老として更に権勢を拡大することへの警戒感もあったようです。

一方、大坂冬の陣には、9男尾張藩主の義直が初出陣し、夏の陣には10男駿府藩主の頼宜が初出陣しています。特に頼宜は、当時14歳で、生まれてからずっと家康の元で育てられ、家康お気に入りの息子と言われていました(加藤清正次女八十姫と婚約済み)。家康は、頼宜初出陣の際自ら頼宜に具足を着せたと言われています。

このとき義直は慶長5年(1600年)生まれの16歳(数え)、頼宜は慶長7年(1602年)生まれの14歳(同)、更に11男頼房(水戸藩主)は慶長8年(1603年)生まれの13歳(同)でした。一方家光は慶長9年(1604年)生まれの12歳(同)、忠長は慶長11年(1606年)生まれの10歳(同)でした。

将軍秀忠より13歳年下の忠輝(当時22歳)でさえ、将軍秀忠にライバル心を燃やしていましたし、そういう忠輝を担ぎ伊達政宗が将軍交替を狙っているとの噂もありました。そうだとすれば、義直、頼宜、頼房と家光、忠長は年が近いだけにライバル心を燃やし、将来将軍を争う心配があります。またこのライバル心を周囲が利用する可能性があります。家康は、この根を断っておこうと考えて、大坂の役後家光後継、長子相続制度を宣言したのではないかと考えられます。

もう1つは、信長の血を引く将軍を誕生させないためであったことが考えられます。大坂の役では、どう考えても勝ち目はないのに秀頼は戦いを挑んで来ました。冬の陣は、やってみないと分からなかったとしても、濠が埋められた後の夏の陣は、100%負けが分かっていた戦いでした。それでもなお戦いに臨み、最後は山里曲輪の炎上する倉の中で自害した様子が、炎上する本能寺で自害した信長に重なったのではないでしょうか。家康は信長の血は破滅の運命を持っていると感じたと思われます。そして、江戸城の忠長を思い出したとき、信長の面影があることに気付き、信長の血を引く者を将軍にしてはいけないと考えたのかも知れません。この場合、家光の後継指名は、忠長排除が目的だったことになります。その大義として長子相続が必要だったのです。

乳母の福が駿府に行き家康に家光後継を直訴したという話がありますが、将軍後継問題は乳母が触れられる問題ではありません。触れたら出過ぎたこととして処分されるのが落ちです。福は稲葉一鉄の長子重通の養女として育てられましたが、重通は一鉄の長子ながら庶子だったため、稲葉本家の家督は、次子ながら嫡子である貞通が相続していましたので、福は、家光は長子ながら庶子であり、秀忠の後継将軍は次子ながら嫡子である忠長が継ぐものと分かっていたと思われます。従って、家康が秀忠の後継将軍に家光を指名したことは、福にとって晴天の霹靂であったと思われます。

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