構造歴史学・・「歴史には構造がある」

連載を終えた「光秀・家康・春日局を繋ぐ点と線」は、私にとって「加藤清正、昭君之間のミステリー」に次いで歴史の謎解きに挑んだものでした。それまでは、歴史にはあまり関心がなく、中高で習った歴史の知識を鵜呑みにしていましたが、たまに常識的に考えておかしいことがありました。それでも昔のことだし、利害関係もないことなので、「まあ、いいか」と放置してきました。それが2016年3月の熊本地震で熊本城が石垣の多くのが崩落するなかで、飯田丸五階櫓を一本の石垣の柱が支えているのを見て、熊本城を作った加藤清正について調べて見る気になりました。調べるとなると仕事での調査の仕方が身に付いているので、半端なことはできません。加藤清正の場合、約1年かけて60~70冊程度の資料(研究書、小説など。秀吉、信長、家康などの関係武将の資料も含む。)に目を通しました。そうすると、加藤清正が置かれた状況というものが見えてきます。ある状況に置かれた人が取れる行動は限定されてきます。それによって歴史の謎を解明することができます。

例えば、「光秀・家康・春日局を結ぶ点と線」で言えば、光秀が関係する織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、長宗我部元親、荒木村重らの行動を過去5年間くらいに渡って調べていきます。その中で光秀が関係する出来事、光秀に影響を与える出来事を把握します。そしてそれらの出来事から光秀の置かれた状況を構成します。構成したものが光秀を巡る構造ということになります。この構造が把握出来たら、謎の部分は自ずから決定されます。私は、このようなアプローチによる歴史の解明方法を、構造歴史学と名付けています。

この作業の中で問題になるのが、構造を構成する出来事が事実であるかどうかです。戦国時代となると史料が少なく、かつその史料も意図的に事実と異なることが書かれた可能性があります。大学などの歴史研究者の研究対象は、一次史料といわれる出来事が生じた時点で、関係者が書いた資料であり、歴史構造を決定する際に採用できる出来事となります。しかし、これは数がとても少ないのです。従って、かなり後で書かれた二次史料や伝聞を書き留めた資料、軍記物なども参考にすることになります。よく一次史料にないことを採用しているから、この説は間違いという主張が見られますが、一次史料を元に構成した構造から推論すると、二次史料や軍記に書かれたことは正しいと思われることも出てきます。

大学の歴史研究者は、一次史料研究者と言うのが実体であり、一次史料に基づかない見解を発表すると、先輩研究者から研究者としてあるまじき行為と糾弾されていることが見受けられます。これが大学の歴史研究者の言うことをつまらなくしている原因だと思われます。大学の研究者は、一次史料の研究結果の発表だけでなく、それらに関連する事項に対する自分の見解も、これは自分の見解と断って発表した方がよいと思われます。

「光秀・家康・春日局を繋ぐ点と線」を書き終えてから、本屋に入ったら、「信長の原理」という本が山積されていました。そのカバーの背表紙下部に「本能寺の変は構造の中にある」という文言があり、「あれ、ひょっとしたら自分がブログに書いた本能寺の変の見立てと同じような解釈になっているのでは」と思い、その部分を見たら、やはり同じような解釈になっていました。作者の垣根涼介氏が歴史構造学的なアプローチをとっていれば、結論は同じようになります。でも何となく私がこの本を元ネタに書いたようで残念でした。垣根氏には「光秀の定理」という著書もあるようなので、私のブログの内容は、もっとそちらの内容と重なるものとなっている可能性があります。「信長の原理」「光秀の定理」は興味惹かれる本ですが、私は「光秀・家康・春日局を結ぶ点と線」を書くにあたって、光秀・信長に関する資料をたくさん読んだので、暫く読む気がしません。多分来年のNHK大河ドラマ「麒麟が行く」は、垣根氏の「光秀の定理」「信長の原理」を参考にした筋立てになるのではないでしょうか。