明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(完)

14.福から春日局へ

晴天の霹靂ながら、家康が福が生んだ子家光を秀忠の後継将軍に指名したことから、福は、江戸城にやってきた目的である稲葉家の再興を果たすこととなります。元夫の稲葉正成は、慶長12年(1607年)に美濃に1万石の領地を与えられ大名に返り咲き、更に家康の孫松平忠昌の付家老となります。福の長子の正勝は、家光に小姓として仕えてからとんとん拍子に出世し、年寄で小田原藩8万5千石の大名となっています。正勝は38歳で病死し、嫡男正則が12歳で小田原藩を相続し、福の兄斎藤利宗が補佐します。福には他に正定、正利の2名の実子がいたという説とこの2名は実子ではないという説があります。私は、福は3人の男子を生んだことが評価されて、将軍跡継ぎを生むため江戸城に入ったと考えますので、3人とも実子だと考えます。正定は徳川義直の、正利は徳川忠長の家臣となっていますので、福はリスク分散のため違う主君に仕えさせたものと思われます。福の関係でその後出頭したのが堀田家です。堀田家は、稲葉正成の前妻の娘万を福が養女とし嫁がせた堀田正吉の家です。福が万と正吉の間に生まれた正盛を養子とし、正盛は家光の近習に取り立てられ、その後家光側近として老中、大政参与にまでなります。

このように福が稲葉正成と離縁してまで江戸城に入った目的は達成されますが、これは家康が心配した外戚の勃興でもありました。その後、福は、家光の後継者作りのために大奥を作り、老中並みの政治力を発揮します。そして朝廷から春日局の名号を賜り、官位は従二位下まで登りました。

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