本能寺の変、どこがミステリー?

6月19日NHKBSで「英雄たちの選択」という番組があり、本能寺の変にまつわる話題(信長は何故本能寺に宿泊したのか?信忠の選択は?)を出席者が討論していました。その中である出席者が「本能寺の変は日本の歴史上最大のミステリー」と言っていました。私が調べたところ、ミステリーなんて何もありませんでした。是非私が調べた「本能寺の変」をお読みください。

8.本能寺の変

これまで見てきたような背景の元で、天正10年(1582年)5月16日夜、光秀が信長に呼ばれた席で、信長が激怒する出来事があったようです。この日は、家康一行を安土に招いた信長主宰の宴会の2日目でした。この当時の出来事を見渡すと、秀吉が備中高松城で水攻めを敢行し、これを聞き付けた毛利軍約5万人が押し寄せ、秀吉軍約3万人を圧迫していました。そのため、水攻め用の堤防も急ぎ作られたせいで、高松城の1階部分が床上浸水する程度にしかならず、逆に高松城は難攻不落化していました。ここで毛利軍に西の山側から攻められたら、秀吉軍は敗走することになったと思われます。そこで秀吉は、毛利方の取次である安国寺恵瓊を通じて、もうすぐ信長が大軍を率いて到着すると吹聴し、毛利軍を牽制していたと思われます。堤防作りは、5月8日に開始し、5月19日に終了したとなっていますので、この間信長の元には、秀吉から毛利軍の増強の様子と支援を求める書状が届いていたと思われます。秀吉支援に行かせるとすれば、主力は光秀軍しか残っていません。当初信長は、家康一行の安土滞在が終了する5月21日以降に、光秀に秀吉支援に向かうよう命じる予定だったと考えられます。しかし、秀吉から急ぎの支援を求める書状が届くに至り、予定を早め5月16日夜に光秀に支援に行くよう命じたのではないでしょうか。この命令そのものは、秀吉が置かれた状況を考えれば当然のものであり、光秀もすんなり従うべきものでした。しかし、それまで毛利攻めにおける秀吉の華々しい成果しか聞いていなかった光秀には、その緊急性が理解できていなかったと思われます。それで「承知しました。」と言いながら、2つのことを信長にお願いした可能性があります。1つは、四国の長宗我部元親討伐の件で、元親は信長の命令に従うと言って来ているので、元親討伐を中止して欲しいということです。或いは取次である自分に行かせて欲しい、と付け加えたかも知れません。もう1つは、家康一行に対する宴会が明日までなので、接待役を明日まで務めさせて欲しい、ということです。これを聞いて信長は激怒します。それは、元親の件は既に出発の準備が完了し、6月3日渡海と決まっていたこと、光秀は中国に近い丹波を領地としていることから、元親討伐ではなく秀吉支援に当たらせることは既に伝えてあったからです。それに、秀吉が置かれた状況を考えれば、接待役をもう1日続けさせて欲しいという申し出も我慢ならなかったと思われます。

光秀は、信長の予想外の怒り方に驚愕したものと思われます。そして、信長の命令を受承り、失礼を詫びて急ぎ安土の屋敷に帰ります。冷静になった信長は、気の小さい光秀の余りの驚き様を気に懸けて、使者に光秀の様子も見てくるよう命じます。そこで使者が光秀の屋敷を訪れ、信長は気にしていない、もうケロッとしている、光秀も気にする必要はない、と伝えます。しかし、光秀の落ち込み方は酷く、使者はその旨を信長に報告します。すると信長は、もう一度行って、毛利攻めでは出雲・石見は光秀の切り取り次第だ、と伝えるよう命じます。この趣旨は、今の坂本・丹波に加え、出雲・石見を加増するということだったのですが、激怒した信長がその後部下に対して取った厳しい対応(例えば佐久間信盛追放)を何度も見てきた光秀は、坂本・丹波から出雲・石見へ転封されるものと採りました。これは「明智軍記」にある内容で、実話ではないという説もあります。しかし、これを以て光秀が信長を恨み本能寺の変を決める理由とするのなら、単に出雲・石見への転封を命じられたと書けば十分です。2回も使者があったことが実話として語り伝えられていたから、「明智軍記」にもその話が挿入されたと思われます。山岡荘八や司馬遼太郎の歴史小説を読めば分かるように、歴史小説は史実に推定、創話を織り交ぜて書かれています。そして、史実はできるだけ省かないようにしています。従って、後に書かれた軍記物だから全部作り話とするのは妥当性を欠きます。

翌17日光秀は坂本城に帰り、その後丹波亀山城に入り、備中高松城支援に出かける準備をするのですが、出陣が6月1日になっていますので、少し間が空いています。光秀に代わり接待役の1人となった堀秀政は、5月20日まで安土で接待役を務め、その後直ちに軍目付として備中高松城の秀吉の元に駆け付け、本能寺の変の知らせは秀吉から受けています。

私は、光秀が丹波亀山城を出発する6月1日までの間に、1度信長に安土城に呼ばれ、ここで本能寺の変を決意する出来事があったのではないかと考えます。

それは、「稲葉家譜」に書いてある出来事です。「稲葉家譜」には、天正10年(1582年)5月27日の出来事として、「美濃の稲葉家の家老那波直治が光秀の家臣になったことから、(信長との付き合いが長い稲葉家前当主の)稲葉一鉄が(娘婿の斎藤利三も奪っておいて今度は那波も奪うのかと)怒り、信長に訴え出た。その結果信長は、光秀に那波は返すこと、利三は切腹と申し渡した。これには同席した猪子兵助が信長をなだめ、利三の切腹は取りやめとなった。この際怒った信長は光秀を打擲した。」という内容の記述があります。これと同様な内容は、「明智軍記」「絵本太閤記」にもあることから、「稲葉家譜」の信頼性が疑われ、歴史研究者の間では本能寺の変の原因として殆ど取り上げられていません。稲葉家は、山城淀藩、安房館山藩、豊後臼杵藩を治めており、前述の稲葉家譜は臼杵稲葉家のものと言われていますが、いつ頃誰か書いたかはっきりしないのです。それでもこの「稲葉家譜」は巻41まであり、東京大学史料編纂所データベースに登録されていることから、全くの作り話とは断定できないようです。私は、この内容は史実に近いと考えます。このレポートの最初の方で、信長の信濃・甲斐討伐のことを書きましたが、その中で、天正10年(1582年)4月5日の出来事として、武田から奪った北信濃の飯山城を稲葉貞通(一鉄から家督を譲られた嫡男)が守っていたところ、旧武田家臣芋川親正に率いられた地侍など約8,000人に包囲され陥落しそうになり、大将の森長可が救援に駆け付け事なきを得たが、貞通は飯山城の守備を解かれ諏訪の本陣に召還された、という史実(信長公記)を紹介しました。このとき貞通の側に仕えていた家老が那波直治だと思われます。直治は、この一件の責任を取って稲葉家を辞することとし、旧知の斎藤利三に相談したものと思われます。その結果、利三から光秀の元に来るよう誘われ、光秀家臣になったのでしょう。こうなると、稲葉家はガタガタです。そこで一鉄は、信長に泣きつき、直治と娘婿の利三を帰すよう光秀に命じて欲しいと頼み込んだものと思われます(直治の件は、堀秀政書状から史実とされている)。一鉄は頑固者でしたが、気のいい人であり、訴訟して2人を懲らしめようと言う気はなかったと思われます。信長にとって一鉄は、信長が美濃を攻略する際いち早く味方した功臣でした。また、当時美濃は、信忠が支配していましたが、それを支える河尻秀隆は甲斐の、森長可は北信濃の支配を委ねられ、手薄になっていました。更にこれから信忠が秀吉支援に向かうとなると、その間美濃を任せられる強力な武家が必要となります。このため、2人を帰らせ稲葉家を強化することは、信長にとっても必要なことでした。しかし、利三は明智家の筆頭家老であり、丹波で一番最後に陥落し不安定な黒井城を押さえていましたから、光秀にとっても重要人物でした。そこで、直治を帰すことについては承諾しても、利三を帰すことについては、相当抵抗したと思われます。その結果信長が激怒し、ならば利三は切腹だと言ったものと考えられます。しかし、利三は切腹に相当する行為はしておらず、本気ではなかったと思われます。それは一鉄も望んでおらず、これから秀吉支援に向かう光秀軍にとってもマイナスだからです。その際に光秀は「良い侍を蓄えることは上様のため」と言ったという話(「川角太閤記」「続武者物語」)もあり、これが事実だとすれば、佐久間信盛が高野山追放になった際、信長が折檻状で理由の1つとして挙げた、昔信長の面目を潰したという信盛の言葉「そうはおっしゃられても我々以上の部下はお持ちになれますまい。」と重なるところがあります。この言葉は、その後光秀に「しまった!信盛の二の舞になるかも」と思わせたかも知れません。

光秀が長宗我部元親討伐ではなく秀吉救援に向かうことは、誰が考えても当然のことであり、信長から命じられた光秀に不満はなかったと思われます。しかし、利三を稲葉家に帰す件は、理性的に割り切れることではなく、光秀の心にわだかまりとなって残ったと思われます。特に、取り消されたとは言え、一旦切腹を命じられたことは尚更です。利三の件は、秀吉支援から帰った後稲葉家に帰すこととなったのか、もう返さなくてよいこととなったのか分かりませんが、光秀には、これだけ信長を激怒させたからにはこの後厳しく当たられるだろうという思いが芽生えたと思われます。

それでも光秀は、この出来事で直ぐに本能寺の変を決心した訳でないと思われます。それはまだ光秀の運命の破綻が確定したわけではないからです。光秀が本能寺の変を決心した経緯については、「備前老人物語」にある話が一番納得感があるように思います。「備前老人物語」では、光秀は本能寺の変の想いが浮かんできた際に、娘婿で家老の明智秀満に話したとあります。それに対して秀満は「多少の不満はあっても都に近い近江と丹波を拝領しているのだから、十分な取り立てを受けており、冥加にかなっています。どうか思い留まり下さい。」と言い、光秀はそれを受け入れます。翌日光秀はまた秀満を呼び、「そなたに相談した後、4名の家老にも相談したら、全員そなたと同じ意見であった。従って、思い留まることとする。」と言います。これを聞いて秀満は驚き、光秀に言います。「4人にも話したのならば、いずれこの話は上様の耳に入ることになるでしょう。ならば決行するしかありません。」これで本能寺の変を決行することが決まったとなっています。ここまでの経緯から考えて、この流れが一番納得感があります。私は、この話は史実に近いと考えます。

尚、利三は光秀にとって重要な人物であり、光秀が抵抗することが分かっていながら、信長は何故一方的に一鉄の申し出を聞き入れ、利三を一鉄に返せと光秀に命じたのでしょうか。普通に考えれば、直治は返し、利三は返さなくてよいとするところです。深読みすると、信長は、将来大坂城を築き自らはそこに移り、信忠を美濃から安土(近江)に移し、光秀を美濃国守にして、稲葉家に支えさせる考えだったかも知れません。光秀は、美濃の守護土岐一族の出であり、信長は光秀が美濃に強い思い入れがあることを知っていました。それに美濃には、織田支配に反発する旧斎藤家臣も大勢いました。それは、本能寺の変後、美濃で旧斎藤家臣が蜂起したことからも分かります。従って、光秀を美濃の国守に据えることは、美濃安定の上からもメリットがあったのです。

だとすれば、親の心子知らずで、2人の思いがすれ違った結果、本能寺の変が起こったことになります。5月16日の夜まで、信長と光秀は蜜月と言ってよい程良好な関係であり、その夜以降破滅に向かっています。本能寺で光秀の謀叛を知った信長は、原因は利三の件にあると直ぐ分かったはずで、それで苦笑いを浮かべ「是非にあらず」と言ったように思います。

光秀謀叛の原因が利三の件であったことから、利三は光秀と並ぶ本能寺の変の首謀者にされたようです。6月7日に安土で光秀と面談し、本能寺の変のいきさつをよく知っていると思われる吉田兼見と親しい公家の山科言継の日記「言継卿記」には、「日向守の内、斎藤内蔵助(利三)は、今度の謀反之随一」と書かれ、同じく公家の勧修寺晴豊の日記「日々記」には「かれ(利三)など信長打談合衆也」と書かれています。実際、山崎の戦いでは、利三は光秀軍の先攻を務め奮戦しています。その結果、六条河原で処刑され、光秀と共に首を晒されます。これにより、その娘福には、主君殺しの逆賊の娘というレッテルが張られることとなり、家光将軍生母と名乗れないこととなります。

尚、信長の守りが手薄な本能寺を襲い、信長を殺害するというやり方は、永禄8年(1565年)に起きた永禄の変にヒントを得たのではないかと考えられます。その頃京では、室町幕府第13代将軍足利義輝と三好三人衆が主導権争いを繰り広げていました。そんな中、永禄8年6月19日、三好三人衆が兵約1万人で、守りが手薄な二条御所を襲い、将軍義輝を殺害します。この事件は、光秀が足利将軍家に仕える前の出来事ですが、その後第15代将軍となった足利義昭に仕えた光秀も良く知っていたと思われます。(以上)

以上は「明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線」の8番目のテーマとして書いたものです。興味を持たれた方は全編通してお読みください。http://yata-calas.sakura.ne.jp/kasuga/

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