空海ってどんな人?-8・空海と嵯峨天皇

809年10月嵯峨天皇からの勅使がやって来ます。空海は密教のことかと思ったようですが、そうではなく、「世説」という五世紀半ばに成立した中国の支配階級の逸話集の中から秀句を抜き出し屏風二帖に揮毫して差し出せということでした。唐では文人や名士の間で書を鑑賞する文化があり、そんな長安で空海が評判を採っていたという話が嵯峨天皇の耳にも届いていたようです。嵯峨天皇は唐風を好み、自ら能筆であったことから、空海の実力を試してみたいと思ったようです。空海は評判取りの揮毫を行い、嵯峨天皇を虜にします。ここから空海は嵯峨天皇の敬愛を受け、実質的に仏教界の最高実力者に上って行きます。

一方嵯峨天皇は退位し上皇となった平城上皇の反抗的な態度に悩まされます。平城上皇は禍を避けるためと称して寵愛する薬子と共に転居を繰り返します。そして最終的には旧都平城京に住むと言い出します。しかしそこには上皇が住めるような宮殿がなかったため、薬子の兄藤原仲成に宮殿の造営を命じます。その間大臣の旧居を仮の御所として再び政治に関与するようになり、二朝政治と言われるようになりました。そして810年9月6日、平城上皇は天皇ではないのに平城京に遷都する旨の詔勅を発します。ここで嵯峨天皇は素直に上皇に従うような素振りを見せ、坂上田村麻呂ら3人を平城京の造営使に任命し、派遣します。坂上田村麻呂には、畿内から東国に抜ける3カ所の関所に兵を配置するよう命じます。その上で藤原仲成は捕らえて監禁の上左遷する、薬子の官位(従三位)と尚侍(ないしのかみ)という官職を剥奪し無位無官とする決定をします。これを聞いた平城上皇は東国へ行き兵を集め挙兵しようとしますが、関所が固められていたため失敗します。その結果、藤原仲成は射殺され、薬子は服毒自殺し、平城上皇は剃髪し出家しました(薬子の変)。

これにより嵯峨天皇の親政が始まります。そして空海はこのような状況を利用し、空海の真言密教を国家公認の正統な密教としようとします。というのは、当時最澄の天台宗が南都六宗に次ぐ7つ目の国家公認の仏教の地位を獲得し、最澄がもたらした密教が正当な密教の地位を獲得したままだったのです。そこで空海は薬子の変が鎮圧された直後、嵯峨天皇に一連の政変で混乱した国家を鎮めるための修法を高尾山寺で行いたいという上表文を提出します。それは嵯峨天皇も望む所であり、直ちに勅許します。これは唐の玄宗皇帝のときに、金剛頂経の師位にあった不空が安禄山の反乱を鎮めるために大々的に密教の修法を用いたのと似ています。このため空海は恵果よりも不空を目指していたという見方もあります。空海は11月1日から7日間真言密教に依る修法を行います。煌々と焚かれる護摩木、護摩壇に飾られた見事な法具の中で、手に印契を結び、真言を唱えながら光り輝く法具類を駆使する空海の神秘的かつ華麗な修法に参列した皇族や貴族などは圧倒され、息を飲みます。これを見た嵯峨天皇は、空海の真言密教は鎮護国家に役立ち、自分らに降りかかる禍を振り払う力があると確信します。ここから空海と嵯峨天皇は、書と教えの両面で強い絆で結ばれます。翌年嵯峨天皇は空海に対し唐の漢詩である「英傑六言詩」、「飛白書」などの書写を依頼します。空海も唐で入手した「徳宗皇帝真蹟」、「欧陽詢真蹟」などを書写し、嵯峨天皇に献上します。こうして空海と嵯峨天皇の交友が深まって行く中で、この年空海を1年の任期で官寺乙訓寺の別当とする旨の太政官符が発令されます。実質的には嵯峨天皇の勅命でした。この目的は、嵯峨天皇が空海を近くに置き交遊を深めたいと思ったことと同時に、不幸な歴史がある乙訓寺を空海の験力で除霊することにあったと思われます。乙訓寺は26年前桓武天皇の皇太子早良親王が藤原種継暗殺を指示したとして、桓武天皇によって幽閉された寺でした。その後早良天皇は淡路に配流される途中で絶命したため、乙訓寺には早良親王の霊が住むという話があったようです。乙訓寺に滞在した1年間で空海と嵯峨天皇の交遊は一層深まったようです。空海は乙訓寺で取れた柑子を嵯峨天皇に献上します。また嵯峨天皇から請われ狸の毛で作った筆を献上します。漢字の学習書である「急就集」や詩集の「王唱齢集」なども献上しています。嵯峨天皇の近くに住まわせた効果は十分あったようです。