「麒麟が行く」を春日局から辿ってみれば

1月19日から明智光秀を主人公にしたNHK大河ドラマ「麒麟が行く」の放送が始まります。織田信長正室濃姫役の沢尻エリカさんが薬物事件で逮捕されたことから、別の観点からも注目度が上がっているように思います。

私は加藤清正(以下清正)を調べて、清正が言われるような豊臣恩顧の大名ではなく、徳川恩顧の大名と言った方が妥当な状態にあったことを知りました。それは清正を調べるに当たり、豊臣秀吉(秀吉)や黒田官兵衛などの清正に近い人物の調査から、比較的遠いと思われた徳川家康の調査に拡大して分かったことです。清正は秀吉死後、次の天下人は家康と見定め、家康に接近しています。朝鮮から帰国した翌年(1599年)には家康の姪(生母の弟の娘)を正室(継室)に迎えていますし、清正の次女八十姫は家康十男頼宜と婚約し、清正死後正室となっています。頼宜の孫である第5代(第3代、4代は兄で早世)紀州藩主徳川吉宗が第8代将軍に就任(1716年)したことから、加藤家改易(1632年)後約84年経って忘れ去られていた清正は、将軍外曾祖父として復活します。清正の次女八十姫が嫁いだ初代紀州藩主徳川頼宜は、家康お気に入りの子供で、次期将軍との見立てもありました。当時は将軍の長子相続制は確立しておらず、家康の鶴の一声で決まったのです。そして徳川幕府第2代将軍徳川秀忠(以下秀忠)の次の将軍候補は、秀忠の長子家光と次子忠長、それに家光より2歳年長の頼宜が考えられました。江戸城内では秀忠および正室江が次子忠長を溺愛していたことから、次の将軍は忠長という声が支配的だったようです。このことは家康の耳にも入っていたはずなのに、家康はこれに異議を唱えていません。もし当時家康が長子相続を考えていたとしたら、次期将軍は次子忠長ではなく長子家光であると宣言し、後継争いの芽を摘んでいたはずです。家康が家光を次期将軍に指名し、長子相続制を宣言したのは、大坂の役が終了した翌年の1616年と言われています。大坂の役において家康に長子相続制を決断させる何かがあったと考えられます。

こうして第3代将軍には、長子でありながら下馬評が低かった家光が就任することになるのですが、これにより家光の乳母春日局(当時は福。家光の生母と考えられる。)が権勢を強めて行きます。実は福は明智光秀(以下光秀)の家老斎藤利三(以下利三)の娘でした。福を家光の乳母に決めたのは家康と言われていますが、なぜ家康は本能寺の変の首謀者の1人として光秀と共に首を六条大橋に晒された利三の娘を乳母にしたのかという疑問が生じます。そこで私は、家康が利三に恩義を感じるような特別な出来事があったのではないかと考え、調べて見ました。結論的には、家康と利三の間に特別な出来事は見つかりませんでしたが、家康と光秀の間には光秀がシンパシーを感じる出来事が存在しました。

本能寺の変が起きた天正10年(1582年)の4月、福の母の実家であり利三が最初に仕えた美濃の稲葉家は、織田軍が奪い取った信濃で支配を任された越後に近い要所飯田城を旧信濃勢に包囲され奪還されそうになるという失態を犯します。これを知った稲葉家先代当主稲葉一鉄(「頑固一徹」の言葉の語源になった人)は、稲葉家の体制強化のため、信長に娘婿利三を稲葉家へ返すよう光秀に命じて欲しいと頼んだようです。美濃は信長の息子で織田家当主となっていた信忠の領土であり、信忠は秀吉支援のため備中高松城に向かうことになっていたため、信長にとっても信忠不在の美濃の守りのため稲葉家強化は必要なことでした。そこで信長は、天正10年5月27日(本能寺の変は6月2日)、光秀に利三を稲葉家に帰すよう命じたようです。いつもなら信長に絶対服従の光秀もこれには相当抵抗したようで、最後には信長が激怒し、光秀を殴打の上、ならば利三は切腹と言い出します。これはその場にいた重臣が取りなしたようですが、信長の性格をよく知る光秀はこの一件が今後尾を引くことを見越して本能寺の変を決行したと考えられます。

こういう視点で「麒麟が行く」を見ると、本能寺の変の謎が解けてくると思います。

 

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