1. 高虎が秀長に仕えるまで

(1)生い立ち

高虎は1556年に近江国犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の次男として生まれ、幼名を与吉と言いました。苗字が村名になっているように元々藤堂家は地元の小領主でしたが、戦国時代に入り没落し、高虎が生まれた当時は、百姓をしながら戦いのときは地元を支配していた北近江の浅井家に足軽として雇われていたようです。父の虎高は養子で、養子に来る前は甲斐の武田や越後の上杉などにも仕えたことがあるいわゆる渡り奉公人だったようです。高虎もその後7人も主君を変えていますので、父親の血を引いているものと思われます。兄弟には兄と妹がいましたが、兄は早くに戦死しています。

(2)最初に仕えたのは浅井長政

高虎は1570年、15歳のとき、浅井長政の足軽として姉川の戦いで初陣を飾ります。体が大きくこのときは織田方の武将の首級(しゅきゅう)を取る武功を挙げ、長政から脇差を与えられます。高虎はその後2度の戦いでも兜首を取り、少し名が知られる存在になったようです。その結果嫉妬する同僚も出てきて、ある日年上の同僚に絡まれ、口論から切り合いになりその同僚を殺(あや)めてしまいます。その結果高虎は、浅井家に居られなくなってしまいます。

(3)2番目に仕えたのは阿閉貞征

高虎が次に頼ったのは、長政の小谷城から約2里離れた山本山城(現長浜市)の阿閉貞征(あつじさだゆき)でした。貞征はその頃(1573年)には浅井から織田に寝返っており、浅井方に通報される恐れはありませんでした。貞征も高虎の評判を聞いており、すんなりと足軽として雇い入れました。その頃織田と浅井は睨み合いを続け、戦いはなかなか巡って来ませんでした。そんな中、高虎が小谷城で切ったのが貞征の縁者であることが分かり、縁者が貞征に引き渡しを求めて来ました。そこで困った貞征は、高虎に知り合いの小川城主(長浜の対岸の現高島市)磯野員昌(かずまさ)宛の紹介状を書きます。

(4)三番目に仕えたのは磯野員昌

員昌は、浅井家に居たときの高虎の武功を知っていたことから、喜んで雇い入れます。員昌は、古くから浅井家に仕え佐和山城主を務める浅井方の有力武将でしたが、織田方に攻められ降伏し、佐和山城から小川城に領土替えされました。小川城がある高島は、北陸に出る北近江の要所であり、ここに元浅井方を置くのは異例のことでした。

それは員昌が勇猛な武将として信長に評価されていたからであり、員昌は織田勢として浅井との戦いの前線に立っていました。ここでは小規模の戦闘が多数あり高虎は小さいながら武功を挙げ、足軽頭になっています。そして1573年織田勢は小谷城を攻撃し、高虎も加わります。員昌は高虎の働きを高く評価し、数々の褒章を出したようですので、高虎にとっては居心地の良い場所だったようです。

そんな中、ある日突然磯野家に難題が降りかかります。信長が員昌に甥の信澄を後継者として養子にするよう命じたのです。信澄は信長に反抗して殺された信長の弟信行の長男で、信行死後柴田勝家に育てられ、信長と浅井長政が同盟を結んだ際に人質として小谷城に行き、長政亡き後員昌に預けられていました。員昌には長男と次男がいたのですが、信長は北近江の要所である小川城には信頼出来る織田方を入れたかったようです。小川城の対岸の長浜には秀吉を入れていますので、考えは理解できます。員昌としては従う以外選択肢はありません。そして1577年、員昌は隠居し家督を信澄に譲ります。このため高虎は4人目の主君に仕えることとなります。尚、この後員昌は出奔し行き不明になりますが、員昌の長男行信はその後信澄の下を離れ明智光秀に仕え、本能寺の変で明智家が滅んだ後高虎が召し抱えます。員昌の娘は浅井家家臣小堀正次の妻となり、作庭や茶道などで有名な小堀政一(遠州)を生みます。小堀正次および遠州は浅井家滅亡後高虎と同じく豊臣秀次に仕え、高虎は養女を遠州に嫁がせています。高虎は近江出身者との縁が濃厚となっています。

(5)4番目に仕えたのは織田信澄

高虎にとって4番目に仕えることとなった信澄は、高虎が選んだ主君ではなく、突然降ってきたようなものでした。信澄は高虎を気に入り、空きができた母衣(ほろ)衆に加え80石の扶持を与えます。母衣衆は領主の警備担当であり、戦いがなくても仕事はあります。というより戦いがない方が望ましい職場と言えます。1573年8月の朝倉家滅亡、1575年5月の甲斐武田勝頼撃破(長篠の戦)、同年9月の浅井家滅亡により、当時築かれていた信長包囲網が破け、高虎が信澄に仕えていた時代には戦いに駆り出されることが殆どありませんでした。こんな中高虎と母衣衆の1人が諍いとなり、相手が槍を手にしたためその槍を高虎が払ったところ相手が前のめりに倒れ、怪我をします。その相手は信澄のお気に入りで、信澄に高虎に非があったと訴え出ます。その結果信澄は高虎にだけ30石の減俸と謹慎処分を申し付けます。これが当時母衣衆では成り上がれないと考えていた高虎を主君替えに向かわせます。1576年、高虎は信澄の下を出奔します。高虎21歳のときです。信澄はその後信長の命令で明智光秀の娘を妻にしますが、本能寺の変の後共謀者と疑われ、大坂で織田信孝および丹羽長秀により殺害されます。もし高虎が信澄の下にいたら、高虎の命もなかったかも知れません。