2-1. 高虎が秀長に仕えていた時代-その1

(1)秀長との出会い

信澄の下を出奔した高虎は、磯野員昌のことを思い出し、員昌から紹介されたことがある能登川村の村長を訪ねます。するとなんと村長の家に員昌が滞在していたのです。員昌は高虎の事情を聴き、村長に誰か紹介できる武将はいないか尋ねます。すると村長から出た名前が羽柴小一郎秀長、後の豊臣秀長だったのです。浅井家滅亡後、浅井家支配地域の大部分12万石は、小谷城攻略に貢献が高かった羽柴秀吉に与えられます。秀吉は小谷城を琵琶湖近くに移し長浜城を築くのですが、いきなり12万石の領主(うち秀長1万2,000石)になったことから、家臣不足に悩み、旧浅井家家臣などを積極的に雇い入れていました。その採用活動の中心は秀長であり、村々を回っては有力者に人材の紹介を依頼していたようです。村長の提案を聞いた員昌も秀吉および秀長は良く知っており、秀吉および秀長も浅井方重臣でありその後織田方で小川城主を務めた員昌は良く知っていましたから、員昌の紹介状があれば採用されないはずがありませんでした。案の定高虎は秀長と面会し、足軽として採用されます。それも信澄から与えられた80石の4倍近い300石の俸禄でした。ここで秀吉家臣ではなく、秀長家臣(秀吉からすると陪臣)とされたことは、後の高虎の人生を考えるとよかったように思えます。というのは、高虎は秀吉の家臣となっても活躍したと思いますが、この頃になると秀吉は有力武将を家臣としており、足軽から出発して秀吉の有力大名に上り詰めた武将はいないからです。秀吉と秀長の出生地は尾張ですが、尾張は信長の本拠地であり、秀吉も秀長も秀吉の最初の領地である近江から多数の家臣を集めており、旧浅井家家臣が主力だったようです。

(2)秀長について

秀長は言わずと知れた豊臣秀吉の3つ違いの弟です。1540年、尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)の生まれとされています。秀吉とは異父兄弟と言われていますが、同父という説もあります。父は一時織田家の足軽を務めたことがあるようですが、百姓と言ってよいと思います。その父も秀長(当時小竹)が小さい頃亡くなり、兄の秀吉が10代で家出したため、秀長は20代に入るまで母と共に百姓仕事をしていたようです。そんな秀長が武士になったのは、兄秀吉が信長に足軽として仕え足軽頭になったため、信頼出来る部下が必要となり、秀長を誘ったためのようです。当時の武将は偉くなるたびに親族、縁者を引き入れて家臣を増やしていますので、秀長の場合もこの例だと思われます。

秀長は20歳に入るまで百姓をしており、戦いには全く参加していなかったため、秀吉の家臣になった後の仕事は、暫く配下の足軽の世話や出陣の準備など裏方の仕事だったようです。しかし1563年頃秀吉が東美濃侵攻の先頭に立つようになってからは、前線での戦いや陣地の守備に参加するようになったようです。この頃秀吉配下には軍師として有名な竹中半兵衛が加わっていますので、秀長は半兵衛と秀吉との軍議に加わり軍略を学ぶと共に、実践を通じて戦いのノウハウを身に着けて行ったと思われます。秀吉は1567年の美濃稲葉山城攻略で活躍していますので、記録はありませんがこのとき秀長も参戦していると思われます。

その後秀長の名前が戦いの記録に現れるようになるのは、元亀元年(1570年)4月の朝倉攻めのときからです。このとき織田・徳川連合軍は、越前朝倉を攻めるため若狭に侵攻し金ヶ崎城を落とします。このときももちろん秀吉が参加し、秀長も加わっています。ここでまさかの事態が起こります。同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切ったのです。こうなると信長軍は東から朝倉軍に、南からは浅井軍に攻められ、西は山、北は海と袋のネズミとなります。そこで織田軍は琵琶湖西側の山中を退却することとし、先ず信長自身が馬で一目散に京に駆け抜けました。残された織田・徳川連合軍は、秀吉軍が殿となり退却します。殿は朝倉軍の追撃を撥ね退け、味方の退却の時間を稼がなければなりませんから、玉砕覚悟となります。その殿軍の殿の指揮を秀長が勤めて、無事任務を遂行しています。

この3年後の天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて浅井長政の本拠小谷城に攻め寄せます。これを知った浅井と同盟関係にある朝倉義景も2万の軍を率いて浅井支援に入ります。ここで暴風雨があり、これを好機と採らえた織田軍が攻勢をかけたところ、朝倉軍は砦を次々に失い、撤退を開始します。それを織田軍が追撃し、越前領に達します。朝倉義景は8月15日に本拠地の一乗谷城に戻りますが、供の兵は少なくなっており、18日に家臣の裏切りにより殺害され、朝倉家は滅亡します。織田軍は直ぐに小谷城に取って返し、小谷城攻略を開始します。ここで活躍したのが秀吉軍であり、秀長も参加していました。秀吉軍は城の裏側から攻めて、本丸と京極丸を分断する役割を与えられますが、秀長が一番手を担って成功させています。また秀長は、落城寸前に蜂須賀小六と長政の元に行き、お市の方と3人の娘を織田方に引き渡すよう説得しています。このように秀長は、戦場での実績も十分持つ武将になっていました。ここに加わったのが高虎だったのです。

(3)安土城築城

1576年信長は、天下統一を目指し京に近い近江の安土に安土城を築き始めます。総奉行に佐和山城主の丹羽長秀を指名し、傘下の大名、近辺の農民など幅広く駆り出されます。当然近くの長浜が領土である秀吉は積極的な協力が求められ、秀吉は秀長を担当に指名します。秀長は長浜に来てから近江の村々を歩き回っており、人夫の動員や職人の手当も心得ています。秀長は高虎も参加させ、これらのノウハウを高虎に伝えたようです。ここでの穴太衆(石工)や甲賀衆(大工)などとの人脈が後に高虎が築城の名人と言われるようになるのに役立っています。高虎も若かったこともあり、石工や大工などと一緒になって働き、彼らの技術を自分のものとして行ったようです。そのため彼らと高虎との関係は、主従関係ではなく、同志関係と言えるものとなっているようです。

(4)但馬攻め・丹波支援・三木城攻め

1577年秀長は、秀吉の毛利攻めに参加します。播磨を征服後秀吉は、秀長に但馬の竹田城と岩洲城(ともに現朝来市)攻略を命じます。竹田城は因幡から山陰道へ出る要所にあり、毛利方と通じた太田垣輝延が守っていました。岩洲城はその支城のような存在だったようです。秀吉はここを抑え、播磨の北を安全にすると共に、因幡・伯耆方面への侵攻を考えていたようです。天正5年(1577年)11月、岩洲城は難なく落ちたようですが、竹田城は2日の包囲の後、高虎率いる部隊が朝方奇襲をかけたところ、秀吉軍が押し掛けたと思った城内から太田垣勢が打って出たため、待ち構えていた秀長本体が攻勢をかけ、打ち負かしました。この結果秀吉は、秀長に竹田城を中心とした但馬南部4万石を与えます。また高虎は1,000石加増され都合1,300石となり、足軽頭から足軽大将へと出世しました。

翌1578年には三木城主別所長治が毛利方に寝返ったため、秀吉は三木城攻めを行います。もちろんこれにも秀長と高虎は参加しています。この戦いで秀吉軍は、三木の干(ひ)殺しと言われる約2年間に渡る兵糧攻めを用いたため、大規模な合戦はありませんでした。

この間の天正6年(1579年)5月、秀長には丹波攻め中の明智光秀支援が命じられます。これは秀吉の毛利攻めに並行する形で天正5年(1577年)10月、光秀も未だ平定できずにいた丹波平定を開始しますが、矢上城と黒井城の攻略に手間取っていました。1578年の秀長軍による但馬南部の平定は、矢上城および黒井城のある丹波の地域と隣接していることから、この両地の連携を断つ目的もあったと思われます。秀長軍の丹波支援は、秀長軍の但馬南部平定を知った信長が命じたものと思われます。秀長軍の支援もあって天正7年(1579年)8月、光秀軍は最後に黒井城を落とし長い間平定できずにいた丹波を平定するのですが、この戦いの中で高虎は、光秀から矢上城と黒井城の中間にあり、たくさん築かれた支城の中継点になっていた大山城攻略を命じられ、完遂します。この時点で高虎の働きぶりは、光秀にまで聞こえていたようです。これが大きな効果を発揮し、矢上城と黒井城は落城します。その後秀長軍は直ぐに三木城に引き返したようです。

三木城の兵糧が尽きたと思われた天正8年(1580年)1月、秀長軍が三木城の背後にある鷹の尾城を攻めた際、高虎は家老で鷹の尾城で侍大将を務める鹿古六郎右衛門と遭遇します。鹿古は大太刀を使えば中国一の強者という評判であり、愛馬も駿馬として有名でした。鹿古は愛馬に跨り薙刀を振り回し、秀長軍は手を付けられない状態でしたが、高虎が槍を手にし、一騎打ちを呼びかけると応じました。一騎打ちは互角の展開でしたが、時間が経つと年が若い高虎が優勢になりました。最後は素手の戦いで高虎が勝ち、鹿古の首を取ります。これを聞いた秀吉は、鹿古の愛馬を高虎に与えます。この愛馬は鹿古黒と名付けられ、その後高虎の愛馬となったとのことです。この後まもなく三木城は落城します。この三木城攻めへの貢献で高虎には、秀吉から2,000石が加増され都合3,300石となり、侍大将へと出世しました。これ以降高虎は、秀長軍で1つの部隊を率いるようになったと思われます。

三木城落城後秀吉軍は但馬に入り、秀長の竹田城を拠点として但馬守護山名祐豊の領土である但馬北部の平定に乗り出します。山名氏の主力拠点である有子山城および本拠である出石城を難なく落とし、但馬全土を平定します。そして但馬12万石が秀長に与えられ、秀長は初めて国持大名となり、出石城を拠点とします(竹田城には秀長重臣の桑山重晴-後の和歌山城代-が入る)。尚、但馬には生野銀山があり、秀長は銀の採掘にも力を入れ、豊臣方の財政に貢献したようです。

高虎は但馬の養父郡大屋郷に住み、近江から両親を呼び寄せます。また地元の郷士の勧めで妻を娶ります。相手は室町時代の四式(侍所長官)家の1つである一色家の支流一色義直の娘でした。一色義直の親戚には後に家康の政治顧問となる金地院崇伝や室町幕府第15代将軍足利義昭の側近だった一色藤長もおり、この人脈は高虎が徳川幕府で政治力を発揮する上で助けとなっています。

(5)鳥取城攻め

但馬を平定した秀吉軍は、そのまま因幡に侵攻します。このときは鳥取西方の鹿野城を落とし、鳥取城を攻めて城主の因幡守護山名豊国を降伏させ、信長に臣従させます(城主はそのまま)。秀吉軍が引き上げた後直ぐに毛利軍が押し寄せ、山名豊国は再度毛利方に付きます。そして城主は豊国から毛利方と付き合いが長い家臣に代わりますが、天正9年(1581年)3月には、毛利で山陰を束ねる吉川元春の一族で石見福光城主だった吉川経家を城主に迎え入れます。このため秀吉は、翌天正9年(1581年)6月から再度鳥取城攻めを行います。毛利から城主を迎えた鳥取城の抵抗は激しいことが予想されたため、秀吉は三木城に続き兵糧攻めを選択します。そのため秀吉は、先ず若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせました。その結果、因幡の米や麦の価格が高騰し、因幡国内から米や麦が少なくなってしまいます。鳥取城内からも売る者がいたということです。同時に城下の住民を城内に追い込み、城内の食料が早く尽きるようにします。また城の周囲12kmに渡り空堀を掘り、塀や柵を設け、城外と連絡できないようにします。夜間には騒音を立て眠れないようにし、昼間には城外で市などの催し物を行い、城内の厭戦気分を高めます。それでも鳥取城には湊川を使って毛利水軍が兵糧を運び込んでいましたが、これも丹後の細川家家臣松井康之率いる丹後水軍が毛利水軍を破ったことで、できなくなりました。これにより鳥取城内は食料が尽き、阿鼻叫喚の地獄と化します。これを見た吉川経家は、重臣と共に自害することを条件に他の籠城者の助命を求め、開城します。鳥取城攻めでは、秀長は但馬の居城出石城から高虎や宮部継潤らと出兵し、南から攻め寄せた秀吉軍と合流しています。因幡の米や麦の買い占めは、農民出身の秀長の献策だったと言われています。尚、鳥取城代には秀吉与力(信長の家臣扱い)として秀長の組下にいた宮部継潤が就任し、鳥取城は織田方の山陰攻めの拠点となります。このように秀長軍には、秀吉家臣あるいは与力が組み込まれており、高虎が主力という訳ではなかったようです。尚、この間秀長軍不在の但馬では国人一揆が発生し、高虎が派遣され鎮圧しています。

(6)備中高松城攻め

鳥取城攻めを終えた秀吉軍は、伯耆侵攻を企てますが、吉川元春が準備万端で待ち構えます。そんな中、備前・備中で毛利軍と戦っていた宇喜多軍の劣勢が伝えられたため、秀吉軍は備前・備中に向かいます(当然吉川軍も後を追います)。

宇喜多軍の大将宇喜多直家はこの年天正9年(1581年)2月に死去しており、宇喜多軍ではこのことを隠して戦っていました。そんな中8月、毛利軍との八浜合戦に敗れ、宇喜多軍は総崩れになりました。

秀吉軍が宇喜多軍と合流し毛利攻めを開始したのは、翌年の天正10年(1582年)3月からです。ここから秀吉軍は、備前・備中の毛利軍の支城を次々に落とし、快進撃を始めます。毛利が支配していた水軍でも調略によって伊予の来島氏を織田方に引き込み、瀬戸内海を支配していた村上水軍を毛利方と織田方に引き裂きます。こんな中、毛利方の猛将清水宗治が守る備中高松城攻めとなります。高松城は低地にあり、3方が深い沼、一方が水堀となっており、攻めるのが難しい立地にありました。そのため秀吉は、2辺を山囲まれた底辺に当たる南西に堤防を築き、近くを流れる足寄川を引き込み、高松城を水攻めにする(水没させる)作戦を採ります。それを聞きつけた毛利軍5万が西側に集結したため、堤防作りに時間をかけられなくなったせいか、高松城は水没せず、却って難攻不落化します。ここで兵員に勝る毛利軍から攻められたら敗北する恐れがあったため、秀吉は盛んに信長に援軍を要請していたようです。このため信長は、家康を安土に招待した信長主宰の宴会の2日目(3日間の予定)の夜(5月16日)に、家康招待の責任者を務めていた光秀に秀吉支援に向かうよう命じています。ここから6月2日の本能寺の変へと繋がります。従って、秀吉が高松城の水攻めをしていなければ、光秀は予想外に早い秀吉支援を命じられることは無く、本能寺の変は起きなかったと考えられます。(本能寺の変の原因については「明智光秀・徳川家康・春日局を結ぶ点と線」をご覧ください。)

予想外の事態となった秀吉は、毛利方にもう直ぐ信長が大軍を率いて来襲すると言いふらし、和睦の交渉を行っていたようです。そんな中6月3日夜、秀吉は2日に本能寺の変が起き信長が死んだという情報に接します。秀吉は混乱し取り乱したようですが、黒田官兵衛(黒田孝高)が「天下を取るチャンスだ」と進言し、明智光秀打ちに引き返す決断をします。そのため毛利との和睦条件を大幅に緩くして(備中・備後・美作・伯耆・出雲の5カ国の割譲から備中・美作・伯耆の3カ国の割譲へ)和睦し、清水宗治の切腹を見届けて中国大返しを決行します。高松城攻めにおいては、秀長は鼓(つづみ)山に布陣します。高虎は支城の冠山城攻撃を命じられ、毛利方の武将を槍で仕留めます。その後水攻めとなったため、活躍の場面はなかったようです。ここでの堤防を早く築くため金銭や米を支給して農民に土嚢を持参させる作戦は、農民の経済観念をよく知っている秀長のアイデアのように思われます(鳥取城攻めでの米の高価買占め策と似ています)。

(7)山崎の戦い

秀吉は6月6日(4日の夜という説もある)に備中高松城を発ち、6月12日には摂津富田(現高槻市)に布陣しています。この距離は約230kmあり、武装した兵士が7~9日間で移動したのは驚異的と言われています。秀吉軍には有岡城主池田恒興や高槻城主高山右近、茨木城主中川清秀らが加わり、さらに兵が離散した信長3男信孝および丹羽長秀が参加しました。ここで軍議を開き、明日3軍に分かれて決戦いの地山崎に入ることとなりました。秀長は黒田官兵衛と共に右軍に入ります。13日の山崎の戦いは兵力に勝る秀吉軍(秀吉軍3万7,000、光秀軍1万)が優勢な戦いを進めますが、高虎隊は光秀の重臣伊勢貞興隊と対峙し、高虎は貞興の首を取ったとなっています。この戦いは秀吉軍の完勝に終わり、以後秀吉は織田家の戦後処理を有利に進めます。