2-2. 高虎が秀長に仕えていた時代-その2

(8)清須会議からの動き

山崎の戦いから2週間後の天正10年(1582年)6月27日、尾張の清州城で信長および信忠亡き後の織田家当主と領土の配分を決める会議(清須会議)が開かれます。出席者は織田家重臣の柴田勝家、豊臣秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名でした。信長次男信雄と三男信孝は共に次期織田家当主を主張していたことから、外されたようです。また、本能寺の変まで秀吉と並ぶ地位にあった滝川一益も出席していません。これは当時一益は関東の上野(こうずけ)の支配を委ねられており、信長死去を聞いた北条勢に攻め立てられ、上野を放棄し伊勢に逃げ帰る途中だったためと言われています。このメンバーを見ると、長秀は長らく秀吉が後見人として立てて来ており、恒興は摂津有岡城主で山崎の戦いで秀吉軍に加わっていましたから、明らかに秀吉側でした。従って、清須会議はメンバーの選定から秀吉の勝利だったことになります。織田家当主の決定については、信長が信忠を指名した際にその次は信忠の嫡男(三法師)と決めていたという説があり、正しいように思えます。問題は後見体制で、信雄と信孝が争っていたことから両者後見人となったようです。当時三法師は岐阜城におり、今後は安土城(本能寺の変後天守と本丸は焼失したが他の建物は存在した)に移し堀秀政が傅役を務めることになりました。この後の領土の配分では、信雄は尾張を、信孝は美濃を相続することとなります。出席者の領土については、勝家は旧来の越前に加え、秀吉の領土であった近江長浜を得ます。ここは近江から越前への出入り口として勝家がどうしても欲しかったようです。秀吉は、近江長浜を失う代わりに河内・山城を得ます。秀吉の養子となっていた信長4男秀勝には光秀の領土だった丹波が与えられますが、これは実質的に秀吉の領土です。毛利攻めで秀吉が得た播磨・但馬・因幡・備中・美作・伯耆はそのまま秀吉のものです。長秀には若狭の旧領と近江の2郡、恒興には摂津有岡の旧領と新たに摂津の3郡が加増となりました。領土的には秀吉が信雄・信孝の織田家を凌いでおり、これが信雄・信孝の不満となって行きます。尚、清須会議には徳川家康も関与しており、委任状(誓紙)を提出しているようです。そのため後日、織田家名代信雄の要請に応じ小牧・長久手の戦いに出陣することとなります。

清須会議後秀吉が織田家の代表のように振舞い始めたことから、これに反発する信孝と勝家、それに不遇をかこっていた滝川一益が接近します。天正10年(1582)10月には信長の妹お市の方と勝家の婚儀を岐阜城で行います。同じ頃勝家は、堀秀政を通じ秀吉は清須会議の決定に違反していると通告し、諸大名に弾劾状を送ります。この月の10日から15日にかけて秀吉は大徳寺で信長の葬儀を行いますが、三法師・信雄・信孝・勝家は出席できなかったようです(しなかった?)。その後10月28日、秀吉・長秀・恒興は、清須会議での織田家当主は三法師という決定を反故にし、信雄を暫定的な当主として主従関係を結びます。これを家康も支持します(このため家康は後の小牧・長久手の戦いに参戦した)。これで勝家との一戦が不可避な状況となりますが、勝家が前田利家・不破勝光・金森長近を秀吉の下に派遣し、和睦します。この際に秀吉は利家らを調略しており、賤ヶ岳での利家らの離脱に繋がったと言われています。この和睦は、勝家の領地越前が雪に閉ざされ出兵できないための時間稼ぎであり、これは秀吉も承知していました。この間秀吉は、長浜城の勝家の養子勝豊を調略し寝返らせ、その後岐阜城の信孝が三法師を安土城に移すと言う約束を守らなかったとして、信雄・長秀・恒興らと共に岐阜城に出兵します。多勢に無勢の信孝は直ぐに降伏し、三法師を引き渡すことで和睦します(信孝はそのまま岐阜城に留まる)。

(9)亀山城・峰城の戦い

上記のような流れの中で、天正11年(1583年)1月、関東(上野)を追われ伊勢長島城に戻っていた滝川一益が勝家と結び、秀吉方に属する伊勢の亀山城、峯城を奪います。これを知った秀吉は7万の軍で奪還に向かいます。その中で秀長隊は、亀山城攻めの左翼部隊を担当します。高虎は先陣を命じられ活躍し、亀山城は難なく落城したようです。峯城は兵糧攻めで落としています。一益が籠った長島城を秀吉軍が包囲しますが、4月になって柴田勝家が北近江に出兵してきたため、秀吉軍は北近江に向かいます。長島城は秀吉家臣蒲生氏郷・信雄が包囲を続けましたが、亀山城と峯城は守備を放棄したため、一益方の支配に戻ったようです。

(10)賤ヶ岳の戦い

天正11年(1583年)4月、柴田勝家が越前から3万の兵を率い北近江に出兵してきます。秀吉は木之元(現長浜市)に着陣します。両軍とも陣地や砦作りに時間をかけ、膠着状態が続きます。このため秀吉は、伊勢の一益にも備えるため長浜城に戻ります。すると信長3男信孝が一益と結び、美濃の岐阜城で再び挙兵します。このため秀吉は美濃に出兵し、大垣城に入ります。これを知った勝家は、甥の佐久間盛政の具申を入れ、秀吉方の大岩山砦攻撃を許します。盛政の猛攻により大岩山砦は陥落し、守っていた茨木城主中川清秀が戦死します。更に盛政は高山右近守る岩崎山砦も攻撃し、右近は秀長がいる木之元本陣に逃れます。ここで勝家は盛政に撤退を命じますが、盛政は聞き入れません。その後桑山重晴守る賤ヶ岳砦を攻撃する動きを見せたため、重晴は守れないと見て撤収を開始します。この撤収中に若狭方面を守備するために琵琶湖を渡っていた丹羽長秀隊が急遽救援に駆け付け、合流して賤ヶ岳に戻り、盛政隊を撃退します。この日大垣城で大岩山砦が陥落したことを知った秀吉は、52kmを5時間(8時間と言う説もある)で木之元に引き返えし(美濃大返し)、早速盛政隊に攻撃を開始します。盛政隊は精強でなかなか崩れません。そんな中、勝家と共に後方の守備に就いていた前田利家隊が突如離脱します。これにより利家隊に対峙していた秀吉軍が盛政隊に攻撃を仕掛け、盛政隊は一挙に劣勢となります。勝家軍では不破勝光・金森長近の部隊も撤収を始め、総崩れの状態となります。以後秀吉軍は勝家を越前北ノ庄城まで追撃し、勝家は自害します。前田利家・不破勝光・金森長近の離脱は3人が前年和睦交渉に来た際に秀吉に調略されていたと言われていますが、甥の佐久間盛政を統制できない勝家に嫌気が差したのかも知れません。

岐阜城で挙兵した信孝は、兄信雄の部隊に包囲され、降伏します。その後信孝は、信雄により切腹を命じられます。伊勢長島城の一益は籠城戦の末降伏し、丹羽長秀預かりとなり越前大野で蟄居します。

この戦いで高虎は、部隊を率いて盛政隊を横合いから鉄砲で攻撃し、混乱させておいて槍で突撃します。この際高虎自身も負傷しますが、勝家軍を追い丸岡城を攻撃し落します。高虎の武功は秀長から秀吉に報告され、秀吉から1,000石、秀長から300石の加増を受けます。これで高虎の俸禄は4,600石となります。賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正ら秀吉子飼いの若武者7人が活躍し(「賤ヶ岳の七本槍」)、各人に5,000石が与えられたとされています。この中には槍が得意でないものも含まれており、褒賞は合戦での武功によるものではなく、秀吉が子飼いの若武者を1人前にするために与えたようです。このような依怙贔屓もあり高虎は、七本槍の若武者とは仲が良かったようには見えません(特に加藤嘉明との不仲は有名)。尚、この後勝家の領地越前は丹羽長秀に、信孝の領地美濃は池田恒興に与えられ、秀吉は恒興の摂津(大坂)を接収しています(この年の暮大坂城完成)。

(11小牧・長久手の戦い

賤ヶ岳の戦い後、信雄は織田家当主として三法師と共に安土城に居住しますが、秀吉から清州城に退去するよう言われ、秀吉との関係が悪化します。秀吉は信雄家の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の3家老を調略し傘下に取り込もうとしますが、これが信雄に知られ、信雄は3家老を処刑します。これを聞いた秀吉は激怒し、信雄成敗を決意します。信雄には織田家と同盟関係を結んでいた家康が応援に入り、小牧・長久手で秀吉軍と激突します。家康は、紀州の雑賀衆や根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成正、関東の北条氏政らに働きかけ秀吉包囲網を形成し、秀吉勢の手薄な地域を攪乱しました。そのため秀吉は、大坂との行き来を余儀なくさせられています。

天正12年(1584年)3月、信雄方の犬山城が秀吉に与した岐阜城主池田恒興から攻められ、占領されます。恒興の母は信長の乳母だったため、恒興と信長は乳兄弟であり、恒興は信雄方に味方すると考えられていました。だからこの裏切りは信雄・家康連合にはショックだったようです。これを聞いた家康は、2日後には尾張の小牧山城に駆け付けます。恒興の娘婿である森長可が小牧山を突こうとしたところを逆に家康軍に攻撃され、大きな損害を出します。この敗北が後の長久手の戦いに繋がります。3月18日、家康軍は小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築き秀吉軍に備えます。秀吉は3月21日、3万の兵を率いて大坂城を出発し、3月27日犬山に着陣します。この後は膠着状態となります。そして4月5日、恒興が秀吉に、家康留守の三河を突けば、家康は小牧山から帰還するはずなので、自分と森長可にやらせて欲しいと献策し、秀吉はこれを許します。大将は秀吉の甥の秀次(兵8,000)とし、恒興隊6,000、長可隊3,000、堀秀政隊3,000の4隊編成で、4月6日の夜出発しました。7日の夜最後尾の秀次隊が宿営しているところが徳川の情報網に掛かり、小牧山に知らされます。家康は8日先遣隊4,500を派遣し、その夜には家康・信雄の本体9,300が小牧山を出発します。そして9日早朝先遣隊は、休憩していた秀次隊を襲撃します。その結果秀次隊は壊滅状態となり、秀次は目付の木下祐久などの木下一族に守られて逃げ遂げます(共の者の馬でとも徒歩でとも言われています)。この報に接した堀秀政隊は引き返し、秀次の残存兵を糾合し、徳川先遣隊を待ち伏せて破ります。この頃森長可隊および池田恒興隊は尾張の岩崎城を攻撃中でしたが、徳川勢出現の報を聞いて引き返し始めます。ここで家康本体は、この2隊と秀政隊の間に入り分断します。ここで秀政隊が進撃すれば長可隊・恒興隊と家康本体を挟撃できたのですが、秀政隊は家康の馬印を見て家康本人が来ていると知り、不利と判断し引き返します。その結果家康本体と長可隊・恒興隊の戦いとなり、長可や恒興が死亡するなど長可隊と恒興隊は惨敗を喫します。家康軍出現の報を聞いた秀吉は2万の兵を率いて救援に向かいますが、家康軍は速やかに小牧山に帰還しています。

この戦いにおいて逃げ帰った秀次は、秀吉から「一門の恥であるから手打ちにする」とまで激怒されます。秀次は初めての大将であり、これに付けた木下祐久は代官の経験が長く合戦には不向きでした。こんな秀次隊を、先を急ぐ4隊の最後尾に置いたのも間違いだったと思われます。このように長久手の戦いの敗北は、秀吉にも判断ミスが多かったと思われます。一方秀長は、高虎と共に北伊勢の峯城、松ヶ島城を攻撃し開城させています。その後の紀州攻め・四国攻めでは、秀次は秀長に守られながら実績を作って行きます。これは秀長が秀吉に進言したためと考えられます。秀長は豊臣家の鎹のような役割を果たしています。

この小牧・長久手の戦いと並行して家康が呼びかけた秀吉包囲網の一環で、秀吉は間隙を突かれています。最も危なかったのは、根来・雑賀・粉河衆らの紀州勢が岸和田や堺、大坂を衝いたときでした。岸和田城は落とされそうになり、堺は占領され、大坂城下は一時混乱状態になったと言われています。そのため秀吉は3回も大坂に帰還しています。四国でも長宗我部元親が秀吉方の讃岐十河城を落とし、讃岐を平定しています。家康は元親に渡海して播磨か摂津を攻撃するよう要請していたようで、秀吉の心配事の1つになっていたようです。その他家康に呼応した越中の佐々成正が能登の末森城の奪おうとしますが、秀吉方の前田利家が阻止し、木曽谷の妻籠城に家康勢が押し寄せますが、秀吉方の木曽義昌勢が防ぎました。

11月に入り秀吉は信雄に伊賀と伊勢半国を割譲して降伏するよう提案し、信雄は受諾します。家康は織田家当主信雄との同盟関係から参戦しており、秀吉と信雄との間に和睦が成立した以上、参戦する理由がなくなり撤兵しました。秀吉は家康にも和睦を結ぶよう呼びかけ、家康は和睦を結び次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするため大坂城に送ります。これ以降秀吉は、小牧・長久手の戦いの間隙を突いた紀州勢および四国の長宗我部元親攻めに向かうことになります。

(12)紀州攻め

小牧・長久手の戦いが終結した翌年の天正13年(1585年)3月、これまで紀州勢(根来・雑賀・粉河衆など)の和泉や大坂の攪乱に業を煮やしていた秀吉は、10万の兵で紀州攻めを開始します。紀州勢は信長時代の石山本願寺合戦でも本願寺に加勢した傭兵軍団で、多数の鉄砲を装備し、射撃の訓練を積んでいました。秀吉自らが大将を務め、副将は秀長と秀次が勤めます。先陣は秀次で、海側と山側の二手に分かれて侵攻します。当時和泉も紀州勢の勢力圏に入っており、紀州勢は和泉の千石堀城・積善寺・沢城などに9,000の兵を配置していました。秀吉軍は先ず東端の千石堀城を攻めますが、守る紀州勢は得意の鉄砲で迎え撃ちます。そのため先陣の秀次軍は多数の死傷者を出します。こんな中、搦手から火矢を放ったところ、この矢が場内の硝煙蔵に引火爆発し、城は炎上します。秀吉は城内にいた非戦闘員を含む5,000人の皆殺しを命じたということです。積善寺および沢城でも、紀州勢は鉄砲で迎え撃ち、秀吉軍の死傷者は多数に上ります。ここでは助命を約束して開城させています(沢城では秀長が交渉)。この後秀吉軍は紀州勢の中心根来寺(寺領約70万石)に向かいますが、根来寺の僧兵(約6,000人)は和泉の城に終結しており、根来寺ははなはだ非力になっていました。そのため殆ど無抵抗で制圧されます。その夜根来寺は出火し、450近くの堂塔や僧房の殆どが消失します。また翌日には根来寺に次ぐ寺院勢力だった粉河寺も炎上しています。

これと並行して秀吉軍は、紀州勢のもう一つの中心勢力である雑賀(さいが)衆にも攻撃を仕掛けます。雑賀衆は雑賀荘と言われる5つの地区の自治集団のことであり、秀吉軍はここを包囲し、住居を焼き払います。その結果、雑賀地区は壊滅状態となり、雑賀衆は解体されます。この際雑賀衆の棟梁鈴木孫一を高虎が謀殺したという話もあります。

その後秀吉軍は紀南に転じます。紀南は有田郡、日高郡、牟婁(むろ)郡で勢力が異なっていました。有田郡と日高郡は割と簡単に平定しますが、高虎らが受け持った牟婁郡では奥熊野に逃げた日高郡国人湯河直春が地元の山本氏と結び、激しく抵抗します。その結果退却に追い込まれ、長期戦となりました。結局和議を結び、湯河氏らの所領を安堵して平定します。

紀州攻めで最も時間を要したのは、宮郷(現和歌山市)の太田城攻略だったようです。ここには太田左近を党首とする宮郷衆5,000が籠城します。ここは環濠集落だったため、秀吉軍は水攻めを選択します(備中高松城、忍城と合わせ三大水攻めと言われる)。その際堤防が切れ、秀吉軍は多数の溺死者を出します。最後は小西行長の水軍を堤防の中に入れ、安宅船や大砲で攻撃して城に侵攻します。城内からも鉄砲を撃ち放し抵抗しますが、ついには主力の首を差し出すことを条件に開城します。32日間の攻防でした。

紀州にはもう1つ忘れてはいけない場所があります。それは高野山です。高野山は根来衆や雑賀衆のように秀吉を攪乱することはしていませんが、領地が拡大していた、僧兵を持っていた、犯罪人(謀反人)を匿っていたなど秀吉の統治に障害になる可能性がありました。そのためこの際に糾しておこうとしたようです。秀吉はこれらを改めないと全山焼き討ちにすると脅します。この結果、高野山側は秀吉の要求をすべて受け入れます。その後高野山の武装は解除され、高野山には2万1,000石の寺領が与えられます。

このようにして秀吉軍は紀州をほぼ制圧します。この後秀吉は農民から武器を取り上げる刀狩を実施し、反乱の目を摘みます。そして紀州と和泉の2カ国を秀長に与え、但馬から転封します。秀長は高虎ら5人の家臣を配置し、紀州国の統治を図ります。秀長は天正13年(1585年)、紀州の統治のため若山に城(後の和歌山城)を築くことし、高虎を普請奉行に命じます。これが後に城作りの名人と言われる高虎の最初の城作りでした。和歌山城は約1年で完成し、秀吉家臣の桑山重晴が但馬の竹田城から秀長家老として入城(3万石)しています。

当時紀州は秀吉軍に平定されたとは言え、抵抗する勢力が少なくなく、かつ秀吉が刀狩や検地を行ったことから、不利益を被る土豪たちの一揆が絶えませんでした。特に紀南の熊野地方での抵抗が激しいものとなっていました。当時高虎は秀長から山奉行を命じられていましたが、その仕事の中心は熊野の木材の集荷であり、これに支障を来していました。そこで高虎は、天正17年(1589年)頃、牟婁郡北山郷(現熊野市)の丘陵に赤木城を築き、ここを拠点として一揆勢の取り締まりを行います。高虎は、一揆勢160人を捕らえ、田平子峠で処刑したと言われています。一方人心掌握術にも長けていたようで、朝鮮出兵では熊野水軍を率いています。尚、赤木城は、小さいながらも堅固な石垣や枡形虎口、犬走りなどを備え、後に高虎式城郭作りの基本が詰まっていると言われています。

意外なようですが高虎は、検地や山奉行、普請奉行をやっていたことから、帳簿も付けられ数字にも明るかったと言われています。万能なテクノクラート像が見えてきます。これが後日徳川家康が高虎を重用した原因だと思われます。