2-3. 高虎が秀長に仕えていた時代-その3

(13)四国攻め

紀州を平定した秀吉は、天正13年(1585年)5月、小牧・長久手の戦いの際に四国を統一し、渡海して播磨や摂津を突く動きを見せた長宗我部元親攻めを決意します。このため、黒田官兵衛は淡路で、一柳直末は明石で待機するよう命じます。また秀長には動員できる和泉・紀州の船舶数を調査し、5月28日までに紀ノ湊(現和歌山市)に集結するよう命じます。6月16日、秀吉は病のため岸和田に在陣し、秀長を大将に、秀次を副将に指名し、淡路から阿波、備前から讃岐、安芸から伊予へ(毛利軍)と3方向からの進軍を命じます。

阿波は秀長・秀次連合軍6万が担当し、長宗我部軍の主力と戦います。長宗我部軍は全軍2~4万を伊予や讃岐にも割かれたため、劣勢は明らかでした。秀長軍は木津城(現鳴門市)、牛岐(うしき)城(現阿南市)を落とし、一宮(現徳島市)・岩倉(現美馬市)・脇(現美馬市)の3城を残すのみとします。岩倉城・脇城は秀次にまかせ、秀長は最重要拠点一宮城の攻略を担当します。秀長勢には高虎もおり、兵糧や水を絶ったことから、7月中旬には陥落します。前後して岩倉城・脇城も陥落しています。この間、秀吉が自ら出陣すると言い、7月3日には先遣隊が淡路に到着しています。秀吉本体については、秀長が出陣には及ばないと制止したようです。一宮城を守った谷忠澄は、元親が居た阿波西端の白地城に戻り元親に降伏を勧めますが、元親は一度も決戦をせずに降伏するのは恥辱であると拒否します。その後重臣の度重なる説得に折れ、秀長の降伏条件を受諾します。降伏条件は、土佐一国安堵、今後は戦いの度に3,000の兵を供出すること、人質を出すこと、家康と同盟しないこと、でした。これにより讃岐や伊予で抵抗していた長宗我部勢も降伏し、四国は平定されます。四国攻めは、秀長が秀吉軍の大将として指揮した初めての大きな戦いですが、見事に大将の役割を果たしました。従ってこの頃秀長は、秀吉に劣らない戦上手の武将になっていたと考えられます。

四国平定後秀長には大和一国が加増され、居城を和歌山城から大和郡山城に移します(前城主の筒井定次は伊賀上野城主へ転封)。この結果秀長は、大和・和泉・紀州3カ国約120万石を支配することとなりました。また高虎にも5,400石が加増され,ついに1万石と大名並みの石高となりました。この後高虎は秀長から大和郡山城の改修を命じられ普請奉行を務めます。この改修で大和郡山城は多くの曲輪を持つ防御機能の強い城に作り替えられたようです。もちろん高虎様式城郭の特徴である犬走りもあります。秀長と高虎は、城の改築と同時に城下町も新しくし、城下町だけで商売を許して商人を城下町に集め、賑わいを作り出しています。ここで高虎は城下町作りのノウハウを学んだと思われ、その後今治や伊賀上野、津での見事な城下町作りに繋がっています。

紀州を平定した秀吉は、家康を臣従させるべく手を尽くします。妹の旭姫を離縁させて家康の正室としましたし、これでも上洛しない家康に対し母親の大政所を人質として岡崎に送ります。この結果天正14年(1586年)10月、家康も上洛を決意します。秀吉からその際家康が宿泊する屋敷を京に作るよう命じられた秀長は、高虎に作事奉行を命じます。建築中に高虎は、外構えと門構えに防衛上の不安があると感じ、独断で変更を命じます。家康上洛前に屋敷を検(あらた)めに来た徳川重臣酒井忠次や本多忠勝らは、設計図よりも防御が厚くなっていることに感心し、高虎を信頼するようになったと言います。秀吉亡き後家康が高虎を招聘するきっかけとなる出来事だったと言われています。

尚、秀吉に臣従するための儀式を行うために大坂に来た家康は、秀長邸に宿泊します。そしてその晩秀長邸で歓迎の宴会が開かれますが、密かに秀吉がやってきて家康をねぎらい、明日の儀式が上手く行くよう根回しをしたと言われています。以後秀長は家康との関係においても鎹のような役割を果たしており、大和郡山城の修築が完成した際や秀長が病床に臥した際には、家康が駆け付けるなど交流が深かったようです

(14)九州攻め

四国攻めの頃、九州では薩摩が北上し、肥前の有馬氏や竜造寺氏を下し、豊後の大友宗麟領に侵攻していました。これに困り果てた宗麟は秀吉に助けを求めます。秀吉は関白(天正13年7月に関白の宣下)として、天正13年(1585年)10月、島津氏に対して停戦を命じます。島津家では激論の末この停戦命令を受入れます。翌年天正14年(1586年)1月、秀吉は島津氏に対し占領した大友領の大部分を返すことになる国分案を提示しますが、島津氏は拒否し、大友攻撃を再開します。そこで宗麟は大坂城に秀吉を訪ね、島津討伐を要請します。

これを受け秀吉は出兵を決めますが、先ずは帰服した毛利などの中国勢や長宗我部などの四国勢に当たらせることとします。天正14年(1586年)6月、島津勢は残された大友領の統一のため、肥後を北上し筑前の高橋紹運守る岩屋城、その長男の立花宗茂守る立花山城および次男の高橋統増守る宝満山城に狙いを定めます。岩屋城と宝満山城は激戦の末陥落しますが、立花山城が陥落しません。そこで島津勢は立花山城の攻略を諦め撤退します。この後宗茂は宝満山城と岩屋城を奪還し、秀吉から「西国一の猛将」と言われるようになります。

8月に入り秀吉は毛利勢に九州進撃を命じます。毛利の部隊は8月26日に九州の門司に至り、島津軍と対峙します。これにより島津軍の進撃が止まります。9月には四国の長宗我部・十河勢力が豊後に入り、大友勢と合流します。その結果、島津勢に奪われていた豊前や筑前の城を次々をと奪還します。このため島津義久は、豊後の大友を直接突き、雌雄を決する方針に転換します。これを見て秀吉方の軍監黒田官兵衛は、今後秀吉の大軍が来たときに備え、豊前・筑前の島津方城主に降伏を訴える文書をばら撒いています。

10月島津義弘率いる3万の大軍が肥後の阿蘇から豊後に侵攻します。ここでは岡城を除き攻略します。同じ頃島津軍は、島津家久率いる兵1万で日向から豊後へ攻め入ります。ここでは栂牟礼(とがむれ)城の佐伯惟定が侵攻を阻止します。この頃毛利勢により豊前の島津勢の城は秀吉勢に降伏しており、残るは豊後での攻防に絞られました。

そこで秀吉は12月、翌天正15年(1587年3月をもって自ら九州に出陣すると触れ、約37カ国に対し20万の兵を大坂に集めるよう命令します。このため小西隆佐(小西行長の父)ら4名に軍勢30万の1年分の兵糧米と軍馬2万疋分の飼料を調達するよう命じます。兵糧奉行に石田三成、大谷吉継、長束正家を任じ、その出納と輸送に当たらせます。

12月豊後では家久軍が宗麟の本拠府内城に迫ります。府内城には四国勢の長宗我部元親・信親親子や十河存保(まさやす/讃岐十河城主)、軍監の仙石秀久らの四国勢6,000が詰めていました。四国勢は毛利勢から持久戦により島津軍を止めておくよう指示されていましたが、西からは島津義弘が迫っていたため、家久と挟撃される可能性がありました。そこで先ずは目先の敵である家久を戸次(へつぎ)川で食い止める決断をします。12月12日、戸次川を境にして両軍が対峙しますが、四国勢は戸次川を渡河して家久軍を攻める作戦を立てます。四国勢は家久軍がいなくなったのを見て渡河しますが、家久軍は少数の部隊を茂みに隠しおり、その部隊が渡河してくる四国勢を急襲すると共に本隊が駆け付けます(釣野伏せ)。虚を突かれた四国勢は敗走し、長宗我部信親(元親嫡男)、十河存保が死去し、兵2,000を失ったと言われています。ここで家久は府内城を落とし、宗麟がこもる丹生島(にうじま)館を攻めますが、ここはキリシタン大名宗麟がポルトガルから輸入した仏郎機(フランキ)砲(大型大砲)を装備しており、家久隊を撃退します。その後家久隊は大友勢の激しい抵抗を受け、府内城で越年することとなります。阿蘇から豊後に入った義弘は、岡城の志賀親次に激しく抵抗され、山野城(現竹田市久住)で越年します。また島津家当主義久は日向国塩見城(現日向市)で越年します。

翌天正15年(1587年)1月、秀吉は自ら大将として九州に出陣することを告げます。そして1月25日には宇喜多秀家軍が出立し、秀長は2月10日、秀吉は3月1日に出立しています。その数20万を超えていました。秀長は3月上旬に、秀吉は3月25日に九州に入り、秀長が豊後・日向方面を南下し、秀吉が肥後方面を南下する2正面作戦をとります。先に九州入りした秀長は、豊後の府内城にいた島津義弘に和睦を呼び掛ける使者(高野山の僧木食応其/もくじきおうご)を送りますが、義弘は拒否します。しかしその後島津軍(義弘隊と家久隊)は豊後から撤退し日向の都於郡(とのこおり)城(現西都市)を拠点とします。秀長軍は島津軍がいなくなった豊後を抜け日向入ります。日向では山田有信が守る高城(たかじょう)(現木成町))を包囲します。そして都於郡城から義弘・家久隊が救援に来ることを見越し、近くの根白坂(ねじろざか)に砦を築いて待ちます。案の定4月17日、義弘・家久隊が2万の大軍で押し寄せ砦を包囲し、宮部継潤が兵1万で守る根白坂砦は窮地に陥ります。藤堂高虎・黒田官兵衛・小早川隆景が救援に駆け付け、九州攻め最大の激戦となります。この戦いで島津軍は大敗し、義弘は飯野城(現えびの市)、家久は佐土原城(現佐土原町)まで後退します。秀長は前年末から足利義明や木食応其を島津義久の元に派遣し、和睦の交渉をしており、根白坂の戦いの敗北により義久は秀長に和睦を申し入れます。そして義久は剃髪して薩摩の川内に滞在していた秀吉の元を訪れ、降伏し仏門に入る意思を示します。これを見て秀吉は「一命を捨てて走り入ってきた」として赦免します。そして薩摩・大隅と日向の諸県(もろかた)郡が島津に安堵されました。

九州攻めにおいて秀長は、秀吉と並ぶ一方の大将を務めており、島津を降伏させる戦いを指揮しています。また同時に早くから義久に和睦を働きかけ、義久は秀長宛てに和睦を申し入れています。これを見ると、秀長は豊臣政権の実務執行者であることが分かります。

九州平定後、秀吉は朝廷に奏上し秀長の官位をそれまでの従三位参議から従二位中納言とします。これにより秀長は大和中納言と言われるようになります。高虎には1万石を加増し、併せて従五位下佐渡守の官位を与えます。高虎は秀長の家臣であり、秀吉から見たら陪臣であることを考えると、異例の扱いでした。これに伴い秀長は、高虎に領地として紀伊粉河(こがわ)を宛がいます。高虎は粉河に入ると住民の心の拠り所として紀州攻めの際に焼失した粉河寺を再建し、守りの要として粉河城を修築します。そして家臣を粉河に住まわせ、但馬の大家郷に住んでいた妻や両親を呼び寄せます。藤堂高虎と名乗るのはこの頃からのようです(それまでは藤堂与右衛門)。

この年天正15年(1587年)秀吉は嫡男がいなかった秀長に姉ともの3男秀保を後継者にするよう言います。しかし秀長は、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死んだ後、織田家家老の丹羽長秀を味方に引き込むため、長秀の3男仙丸を後継者として養子にしていました。天正14年(1586年)に丹羽長秀が亡くなったため、秀吉は血のつながった甥の秀保に秀長家を継がせようと心変わりしたようです。これには秀長も仙丸の扱いで困ります。このとき高虎が自分には子がいないから仙丸を養子に貰い受けると申し出たと言われています(秀吉が命じたという説もあります)。この件で秀長は高虎にとても感謝したようで、高虎はその後秀長家筆頭家老となっています。高虎養子となった仙丸は藤堂高吉と名前を変え、藤堂家後継者として育てられますが、高虎が46歳のときに実子が生まれたため、後継者を辞退しています(その後伊賀名張に分家)。

(15)小田原攻め

天正16年(1588年)に入ると秀長は病気がちとなります。この年秀吉は浅井長政と信長の妹お市の方の長女で、お市の方が柴田勝家に再嫁後北ノ庄で自刃した後引き取っていた茶々を側室とします。その後秀吉の子(鶴丸)を身ごもったため産所とするため、天正17年(1589年)、秀吉は秀長に淀城の築城を命じます。もちろん高虎が指揮を執りました。

天正18年(1590年)3月、秀吉は小田原の北条氏攻めに出発しますが、本来なら秀吉軍に加わるはずの秀長は、病気のため参加できませんでした。そのため高虎が秀長名代として兵5,000を率いて参加します。この小田原攻めでは、秀吉軍には気になることがありました。それは秀吉軍に参加することになっている家康が娘の督姫を北条家当主の北条氏直に嫁がせていることでした。家康は、北条と断交する意思を秀吉に伝え、証人として三男長丸(後の秀忠)を大坂城に送ります。秀吉は長丸を送り返し、徳川領内の安全な通行の便宜を求めます。秀長家の筆頭家老として家康方と最も親しい高虎には、家康軍との連絡と家康軍の監視の役割が与えられていたと思われます。そのせいか小田原攻めでの高虎の記録は、織田信雄、蒲生氏郷、福島正則らが主力を務める韮山城攻めに加わったことしかありません。そして韮山城は、家康が交渉役となり開城させています。

小田原攻めは北条氏政・氏直親子の降伏で同年7月には終結します。その後秀吉は一部の軍を率い、小田原攻めの最中に臣従を誓った伊達政宗ら東北地方の武将の領土仕置きのため東北に向かいます。これで秀吉に歯向かう勢力はなくなり、秀吉の天下統一がなります。この後家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の旧領から、北条氏の領土であった関東に移ることになります。

この小田原攻めには秀長は参加できず、高虎にも目立った活躍はなかったことから、なんの褒賞もありませんでした。秀長の病状はその後悪化を続け、翌天正19年(1590年)1月死去します。享年51歳でした。