2021年1月8日 / 最終更新日 : 2021年6月3日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎サラリーマンが学ぶべき戦国武将は藤堂高虎 サラリーマンが人生の参考にする戦国武将の3傑は、豊臣秀吉・織田信長・徳川家康だと思われます。いずれも天下人ですし、この3人を主人公とする歴史物語が多数書かれ、テレビや映画でもよく取り上げられていますから、そうなるのも当然 […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年11月1日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎5-2・家康に仕えていた頃の高虎-その2 (6)大久保長安 尚、徳川幕府において外様から譜代大名並みに出世した人物がもう1人います。それは大久保長安です。長安は甲斐の旧武田家に仕えた武士で、武田時代は主に金山の管理をしていたようです。武田滅亡後三河に行き、徳川譜 […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年11月1日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎5-1・家康に仕えていた頃の高虎-その1 (1)朝鮮から帰国後関ヶ原まで 秀吉死後高虎は次の天下人は家康と見立てます。しかしここから石田三成と徳川家康の暗闘が始まり、これに三成に恨みを持つ加藤清正ら秀吉子飼いの大名の争いが加わります。高虎は一貫して家康を守るため […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年11月1日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎4・秀吉に仕えていた頃の高虎 秀長死後秀長家は養子となっていた秀保が継ぎます。秀保は当時12歳であり、筆頭家老高虎が秀長家を取り仕切っていたと思われます。天正20年(1592年)秀吉は朝鮮出兵を命じますが、秀保は名護屋在陣で、高虎が熊野水軍を率いて参 […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年11月2日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎3・見えてくる秀長像 (1)豊臣政権の鎹(かすがい)だった 秀長の死から1カ月後の2月、秀吉はあれだけ重用していた利休に切腹を命じます。理由は良く分かっていませんが、秀長の生存中は「公儀のことは秀長に、内々のことは利休に」(秀長が大友宗麟に言 […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2021年2月4日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎2-3. 高虎が秀長に仕えていた時代-その3 (13)四国攻め 紀州を平定した秀吉は、天正13年(1585年)5月、小牧・長久手の戦いの際に四国を統一し、渡海して播磨や摂津を突く動きを見せた長宗我部元親攻めを決意します。このため、黒田官兵衛は淡路で、一柳直末は明石で […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年11月1日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎2-2. 高虎が秀長に仕えていた時代-その2 (8)清須会議からの動き 山崎の戦いから2週間後の天正10年(1582年)6月27日、尾張の清州城で信長および信忠亡き後の織田家当主と領土の配分を決める会議(清須会議)が開かれます。出席者は織田家重臣の柴田勝家、豊臣秀吉 […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年12月12日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎2-1. 高虎が秀長に仕えていた時代-その1 (1)秀長との出会い 信澄の下を出奔した高虎は、磯野員昌のことを思い出し、員昌から紹介されたことがある能登川村の村長を訪ねます。するとなんと村長の家に員昌が滞在していたのです。員昌は高虎の事情を聴き、村長に誰か紹介できる […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年11月1日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎1. 高虎が秀長に仕えるまで (1)生い立ち 高虎は1556年に近江国犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の次男として生まれ、幼名を与吉と言いました。苗字が村名になっているように元々藤堂家は地元の小領主でしたが、戦国時代に入り没落し、高虎が生まれた当時は、百姓 […]
2020年11月1日 / 最終更新日 : 2020年11月1日 yata-calas 豊臣秀長と藤堂高虎豊臣秀長と藤堂高虎(序) この2人に関心を持ったのは、堺屋太一氏が逝去され、当時の菅官房長官が毎日新聞のインタビューで「私は堺屋さんの「豊臣秀長」という小説を読み、補佐役に徹した秀長があこがれの武将となった」という趣旨の発言をしているのを読んだか […]