2024年3月6日 / 最終更新日 : 2024年3月7日 yata-calas 加藤清正加藤清正は「暴れん坊将軍」の曽祖父 戦国武将加藤清正(以下清正)は歴史上豊臣恩顧の大名の代表的存在になっていますが、実はそうではありません。清正は秀吉死後(慶長3年(1598年)8月)徳川家康に接近し、徳川恩顧の大名に変身しています。 清正は、秀吉に育てら […]
2020年12月6日 / 最終更新日 : 2020年12月6日 yata-calas 加藤清正お詫び;熊本城「昭君之間のミステリー」のリンク先が違ってました 表記の通り、リンク先が間違っていましたので訂正しました。ご迷惑をおかけしました。 これで正しく表示されますhttp://www.yata-calas.sakura.ne.jp/
2018年12月7日 / 最終更新日 : 2018年12月7日 yata-calas 加藤清正加藤清正が生きていたらその後の歴史はどう変わったか? 山岡荘八「徳川家康」26巻を読み進む中で、私の目的の1つは、加藤清正(以下清正)が生きていたら歴史はどう変わったかを考証することでした。というのは、前年1年間清正について調べましたが、清正は慶長16年(1611年)6月2 […]
2018年11月9日 / 最終更新日 : 2023年2月8日 yata-calas 加藤清正加藤清正が将軍就任を夢見た娘婿徳川頼宜 (1)「昭君之間」の将軍とは徳川頼宜のこと 熊本城本丸御殿にある「昭君之間」は、1610年頃加藤清正が完成させた格式の高い謁見の間です。通常清正は、その前室に当たる若松の間で謁見していたと言われており、「昭君之間」は何の […]
2018年11月1日 / 最終更新日 : 2021年11月16日 yata-calas 加藤清正加藤家改易は徳川頼宜を抑え込むため (1)加藤家改易の表向きの理由 1632年6月、加藤清正を始祖とする肥後藩加藤家は、徳川幕府により改易処分となります。加藤家改易問題は、肥後藩第2代藩主加藤忠廣の嫡男光正が知り合いの旗本をからかう目的で、日光東照宮参拝に […]
2018年10月15日 / 最終更新日 : 2021年8月10日 yata-calas 加藤清正徳川家康、鯛の天ぷら殺人事件 元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は75歳の生涯を閉じます。徳川家康がタカ狩りに行っていた駿河田中の番城で嘔吐を催し倒れたのは元和2年1月22日の午前2時頃です。その前日21日の晩、久しぶりに長崎から御機嫌伺いに […]
2018年10月9日 / 最終更新日 : 2018年10月9日 yata-calas 加藤清正山岡荘八「徳川家康」26巻読了! 10月5日、今年の5月から読み始めた山岡荘八「徳川家康」26巻を読み終わりました。大体週1巻(文庫本約500ページ)のペースで読んだことになります。書店の文庫本コーナーで一番長い書列になっていて、まさかこれを読みにかかり […]
2018年10月1日 / 最終更新日 : 2019年6月26日 yata-calas 加藤清正名古屋城の金の鯱、発案者は大久保長安!? 9月18日のブログで山岡荘八の「徳川家康」22巻で加藤清正(以下清正)が登場し、家康に対し、名古屋城の天守に金の鯱を上げるよう提案する場面がある、と紹介しました。清正は天守台の普請が担当であり、金の鯱は作事(建築)方の領 […]
2018年9月26日 / 最終更新日 : 2018年9月26日 yata-calas 加藤清正秀吉の後悔の声が聞こえそうな名護屋城跡 秀吉が1592年4月の朝鮮出兵の、と言うより明征服の本部として築城した名護屋城は、佐賀県唐津市の西部の玄界灘に突き出た波戸岬の丘陵(標高約90m)にあります。両側がフィヨルド風の入り江になっていて、多くの船を係留でき、朝 […]
2018年9月25日 / 最終更新日 : 2024年9月16日 yata-calas 加藤清正熊本藤崎八幡宮の秋祭りがボシタ祭りと言わなくなった訳 熊本市の藤崎八幡宮は熊本を代表する神社です。そこの秋のお祭りは、5日間に渡り行われる伝統的なお祭りで、今年は9月13~17日に行われたようです。。私が熊本に住んでいた頃にはボシタ祭りと言われていて、最近まで今でもボシタ祭 […]